2018年4月22日
「約束に支えられた結婚」 Ⅱコリント11:2~3
基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司
見合い結婚がいいか、恋愛結婚がいいか…。結婚は当事者だけの出来事ではなく、他の家族や周りの親族たちにも影響のあることだから、見合い結婚のような〝書類選考の上では問題なし〟という事情も一定の価値がある。一方、恋愛結婚の長所は、あとで二人の関係がこじれたとき〝昔、あれほど愛し合ったことがあったじゃないか〟と、原点に立ち返る方便が残されている。こういう歯止めを持っているかどうかによって、結婚生活はずいぶん違った様相をおびるだろう。
「私は神の熱心をもって、熱心にあなたがたのことを思っているからです。私はあなたがたを、清純な処女として、ひとりの人の花嫁に定め、キリストにささげることにしたからです。しかし、蛇が悪巧みによってエバを欺いたように、万一にもあなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真実と貞潔を失うことがあってはと、私は心配しています」(Ⅱコリント11:2~3)。
ここでは、キリストと教会との関係が、花婿と花嫁、すなわち夫と妻との間柄に譬えられている。私たちの心をキリストから引き離すものとは何か?
モーセの十戒の第一戒で命じられている。「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない」(出エジプト20:3)。ところがイスラエルの民は、たびたび霊的姦淫に耽り、他の神々を恋い慕った。十戒を授かっていたちょうどそのとき、ふもとの大集団では混乱が起きていた。金の耳輪を集めて鋳なおし、雄牛の像を造って神とし、拝んでいた。契約は与えられた瞬間に破られていた。
私たちは、結婚式の日に、互いに契約を結んで誓約を交わした。〝あなたは健やかなときも、病むときも、これを愛し、これを敬い、その命の限り、かたく節操を守ることを誓いますか〟と、神と人との前で、約束、契約を交わすのだ。本能に任せていたら、絶対にうまくはいかない。これが大前提にあって、そうならないように、約束、契約を結ばせるのだ。この誓いの意味は非常に重い。夫婦の愛とは、それほどの決意とか、決心、かたい約束がなければ、うまくいかないものなのだ。
花婿なるキリストの愛から、私たちの心を引き離すものとは何だろう。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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