2024年7月14日 基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司
「臆病者」ルカ22:61
16世紀島原半島に有馬セミナリオがあった。イエスズ会が設立した神学校だ。そこに荒木トマスが学んでいて日本初の留学生として、ローマに渡り、ラテン語や神学を学んでいる。荒木が帰国したとき、弾圧政策は強化されていて、信徒は斬首されたり、火あぶりになって死んでいた。キリシタン禁制を知りながら、宣教師たちは次々に日本に密航してくる。貧しい農民信徒たちはその巻き添えを食っていた宣教師たちは、信徒たちに殉教の夢を強いている。殉教を期待している。殉教だけが神につながる道だと説いている。だがそんな過酷な道しか信仰にはないのかこれが荒木の理屈だった。1619年奉行所の役人たちが来た時、荒木は恐ろしさに震えながら捕縛された。拷問にかけられると、すぐに信仰を棄てると誓って転んでいる。荒木には「転びキリシタンのペテロとのあだ名がつけられた。裏切り者の親方との意味である。寛永11年宣教師たちを乗せたスペイン船が、琉球の海岸に漂着した。この時。荒木が宣教師の一人、オザラザ司祭に流暢なラテン語で話しかけた。「日本にはもう信徒たちの血が十分すぎるほど流れた、あんたたちの理想をこれ以上押し付けないでくれ。司祭は荒木の語り終えるまで、黙っていた。荒木が話し終えるとただひとことこう言った。「お前のラテン語は素晴らしい。だがお前の信仰は悪い。お前の留学は無駄であった。司祭は拷問にかけられ、殉教している。この人にはただ一つの生き方、ただひとつの死に方しかなかったのかもしれない。人間には生まれつき心の強い者、勇気のある者と、臆病で心の弱い者との二種類がある。あのお方は私が弱くて臆病だけど愛したのかそれとも弱くて臆病だから愛したのか、現象的には弱くて臆病だけど愛したであっただろう。殉教だけが今は神につながる道であり、もし、それを拒む者は神を裏切ることだとされていた時代に荒木は拷問の苦しさにキリストを棄てると誓って転んだのだから、これはあのお方にとっては、弱くて臆病者だけどイエスは荒木を愛した以外のなにものでもない。しかし、こんな発想は月並み過ぎる。あのお方は荒木の弱さや悪いとされた信仰など少しも気にかけていなかったに違いない。荒木その人を愛したのである。貧しい農民信徒たちの信仰を守ろうとした彼の優しさを愛したのである。あのお方はそういう存在なんだと私は信じて疑わない。「鶏が鳴いた。主が振り向いてペテロを見つめられた」(ルカ22:61)。
礼拝メッセージ
わが愛するもの
2026年1月18日 聖協団目黒教会 牧師 横山さおり「わが愛するもの もっと見る