2024年7月7日 基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司
「輝き無く威厳無き」イザヤ53章
「俺が左大臣よ、あんたは右大臣だ」弟子らはイエスがダビデのようなイスラエルの王、ユダヤ民族の救世主となってくれることを期待しただろう。イスラエルの王メシヤによる新政権誕生に伴う閣僚名簿を想像した。政治と宗教が未分化の時代だから救世主は社会変革をもたらす指導者であり、そのシンボルがダビデとソロモン王であった。ダビデは戦って倒した軍人気質であった。一方ソロモンは西側の大国エジプトと和平を結ぶなど、政治家気質である。メシヤキリストはダビデの血筋から現れることになっていた。ダビデ王は様々な敵対者に命を狙われた。ダビデの部下は死ぬことがあっただろうが、ダビデの方は傷ついても死にやしない。窮地に陥っても深手ぐらいで済んでしまう。腕っぷしが強いのかもしれないが運も強い。それが英雄というものなんだ。いや、英雄が死なないのではない、死なないのが英雄になるのだ。日本の幕末維新だって、生き残ったのが英雄であった。生き残ればこそ桂小五郎は木戸孝允になれたのであり、池田屋あたりで斬り殺されてはいかんのである。だがあのお方は、死んでメシヤになろうとしている。昨年9月三遊亭円楽さんが亡くなった。肺がんだそうだが、脳腫瘍も発症し開頭手術をうけている。生涯最後の高座では呂律が回っていなかった。(俺と同じ症状だなと思った。過日結婚式の司式を請負い、呂律が回らず、損害賠償を請求されかねない失態であった。)だが円楽さんは偉いと思った。「みっともなくてもやる。死ぬまでやる」「みっともないからやめる。俺の変わりなんて幾らでもいるし」とは言わなかった。イエスの敵対者らが、刑場へと追い立てる。素っ裸にされ、重い十字架を担がされ、民衆の侮辱嘲笑が容赦なく浴びせられる。イエスをからかい、小突き唾を吐きかける。私たちが見とれるような姿はなく、私たちが慕うような見ばえもない。イエスはみっともない姿で死ぬことで救い主になろうとしている。「みっともなくてもやる。死ぬまでやる。」「彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。」(イザヤ53章)
礼拝メッセージ
わが愛するもの
2026年1月18日 聖協団目黒教会 牧師 横山さおり「わが愛するもの もっと見る