2018年4月15日
「小羊イエス」 民数記28:2~11
基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司
旧約聖書とかけて、するめと解く。そのこころは、噛めば噛むほど味が出る。
民数記28章に、神がイスラエルに命じた〝いけにえ〟について記されている。読んで楽しいものではない。不思議なことだが、人が信仰によって、まごころから〝いけにえ〟を捧げるならば、神との関係を回復できると、贖い主は約束してくださった。
「これがあなたがたが主にささげる火によるささげ物である。一歳の傷のない雄の子羊を常供の全焼のいけにえとして、毎日二頭。一頭の子羊を朝ささげ、他の一頭の子羊を夕暮れにささげなければならない」(民数記28:3~4)。これは大変なことである。しかもレビ記には「…いけにえの皮をはぎ、いけにえを部分に切り分けなさい」(1:6)とあり、「内臓と足は、水で洗わなければならない」(1:9)らしい。アジ一匹さばくのも大変なのに、小羊一頭、解体しなさいと命じられ、できるだろうか。以前雑誌〝フォーカス〟に掲載された記事に、ドイツのメンヘングラトバッハに住む26才の女性が愛人を殺害した。それをバラバラにさばいて唐揚げにし、プラスチックの容器に入れて冷蔵庫に保存。少しずつ食用にしていたと、ご丁寧にその容器、食べた人、食べられた人の写真を載せて紹介していた。
「その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。『見よ、世の罪を取り除く神の小羊』」(ヨハネ1:29)。イエスの十字架の苦しみは、大変なものだった。これ以上に衝撃的な死があっただろうか。九時ごろ十字架につけられ、六時間後の午後三時、身も心も引き裂かれ、イエスは息を引き取った。
イスラエル人の日常生活は、〝いけにえ〟を捧げることに、多くの時間と労力をかける必要があった。罪を犯す者が、罪を赦され、神との関係を回復するためには、それほどの労力と時間とお金をかける必要があった。同じように、私がいま救われるためにも、繰り返し〝いけにえ〟を捧げるのだろうか。イエスの十字架は完全であった。だから、一度だけでよいのだ。「このみこころに従って、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです」(ヘブル10:10)。「わたしは、もはや決して彼らの罪と不法とを思い出すことはしない」(ヘブル10:17)。十字架こそ、私の救いである。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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