2024年2月11日基督聖協団目黒教会 牧師 横山さおり
「栄光は神のもの」ローマ11:33~36
神はイスラエルの失敗をも用いて神のご計画に組み入れられた。人間の弱さを通して栄光を表わされる神の知恵と知識の富の深さをパウロは讃える。神のさばきにも人の計り知れない神のご計画があると述べる。イスラエルは神のさばきによって、苦しく険しい道を通り続けたが、彼らは神のさばきが苦しみだけをもたらすものでは無いことを知っている。さばきによってみ教えを教えられ、神のもとに立ち返ることの幸いを詩篇の作者は歌う。(詩篇94:12,15)新約聖書でも、神の懲らしめが神の愛ゆえだと語られている(ヘブル12:5,6)。しかし神のさばきの指導は決して生ぬるいものではなかった。その激しい苦しみ、痛みを体験して、イスラエルは神が彼らを治める主であることを知った。イスラエルが苦しみの渦中にあった時、預言者たちを通して語られた希望の約束だけが彼らの慰めであった(イザヤ40:1~2)。神のさばきは知り尽くしがたく神の道を極めることは難しい。さばきの中を歩む時、人は神を信じ、与えられたおことばを握りしめ、遠い光を目指して歩む。アブラハムも、イサクもヤコブも、モーセもダビデも人間としての弱さを抱え神とともに生きた。失敗したのであれば、弱い自分を神の御前に認めて、弱いままの自分を神に差し出せば良い。人間にできることはそれ以外にない。神は人の弱さを人よりもご存知だ。落ち度の無い敬虔なヨブも、神の御前には誇ることは許されなかった。すべてを創造して治めておられる創造主の圧倒的な主権を見て自分の義を主張した誤りを悔い改めた。神の御前にはだれも誇ることはできない。人は失敗を犯す。そして神は人の弱さをも用いて栄光を表わされる。さばきの中を歩んだお方がおられる。暗闇の力と背中合わせに、神の知恵による万人を救う光の計画が進んでいた。イエスもまたさばきを受けなければならなかった。自分の罪のために受けるさばきではなく、全人類の罪を肩代わりして受けるさばきだ。万人の救世主となるために避けて通れないさばきを前に、イエスのお心には強い葛藤があった。「今わたしの心は騒いでいる。『父よ、この時からわたしをお救いください』いや、このためにこそ、わたしはこの時に至ったのだ。父よ、御名の栄光を現してください」。イエスは、よみがえりの光を目指してさばきの道を進んでいかれた。御座にあって御自身に依り頼む者をとりなすために。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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