2024年1月28日 基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司
「もう、決まったことだからしっかりしなさい」ルカ22:41~43
受難の前夜、イエスは恐怖に慄きつつ祈った。煩悶の末「御心を行って下さい」と、静かに祈りのテンションが変わる。神の定めた宿命、天命を信じたのだ。すべての宗教が主張して止まないテーゼである。多少の不都合が生じても仕方がない。神の思いは人知の及ぶものではないし、不幸も未来への戒めであったり、神に心を預ける試練かもしれない。高い視点で見た方策なのだ。
ロミオとジュリエットの第二幕目に有名なバルコニーの情景がある。二人は決断が早い。二人の仲が絶対無二の関係であるなら、グズグズする理由はどこにもない。
ゲッセマネの祈り。どれほどの時間が経過したのだろう。「もうこれでいい。時が来た。」何もかも御心の通りなのだ。厳しい運命に出会った瞬間、「よし!」と思うかどうか。
イエスの生涯には二つの御心があった。懐妊時の母マリヤの応答。そして終焉間近ゲッセマネの応答である。
誰だっていきなりみ使いが現われ「あなた妊娠してますよ」と言われたら普通ではいられない。フラ・アンジェリコの有名な宗教画に「受胎告知」がある。み使いがすくっと立ち、マリヤは上体を少し傾け、表情は堅い。み使いは腕を組み「もう、決まったことなんだからしっかりしなさいよ」。生徒指導の教師が女学生を叱っているような気配がある。マリヤは御心に従う決意を固めた。イエスの誕生も受難も、もう決まったことである。そうであるなら、あとはしっかりするしかない。違うだろうか。これは人間の生き方を描いたものだ。人間50を超えればなにかしら心に期して待つものがある。「み心とは、そして天命とは何か?」こうした疑問もただの戯言と思って素通りできなくなるのだから始末が悪い。
祈りだけがイエスに道を備えた。「…ひざまずき、こう祈られた。『わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください』すると、御使いが天からイエスに現れて、イエスを力づけた」(ルカ22:41~43)。み使いはマリヤに現れたガブリエルだったのだろうか。「もう、決まったことだからしっかりしなさい」。今の私にはそう聴こえる。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です