2018年3月18日
「神に仕える心」 使徒20:24
基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司
「ただわかっているのは、聖霊がどの町でも私にはっきりとあかしされて、なわめと苦しみが私を待っていると言われることです。けれども、私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません」(使徒20:23~24)。
土佐の郷士、坂本龍馬について考える。彼ははじめ勝海舟に学び、海軍操練所の設立に参画し、やがて西郷隆盛と木戸孝允を動かし、薩長連合の密約を結ぶことに成功する。次いで山内容堂を説得して大政奉還の基礎を確立するところまでやったが、慶応三年、中岡慎太郎と共に京都で暗殺された。時に三十二、三歳の若さであった。竜馬自身、これらの事件によって、自分のために期待したものは何もなかっただろう。動乱の時代である。彼はただ信じ、ただ決意し、『受けるよりも与えるほうが幸いである』(使徒20:35)と思ったかどうかはわからないが、自ら成すべき義務を感じ、艇身して東西に奔走した。身辺の危険は元より覚悟しており、その予期していた通りに殺害された。何かを得るとか、受けるとか、そういうものとは無縁であった。
イエスも、パウロも、『受けるよりも与えるほうが幸いである』(使徒20:35)を、天命と感じていたに違いない。天から与えられた生き方、神に仕える心である。だからこそイエスも、パウロも、命がけの無償の行為を貫くことができた。これ以上に確実なキリスト者の生き方があるだろうか。
「たといたくさんの物を持っていても、人のいのちは、持ち物にはよらないのである」(ルカ12:15口語訳)。
人間は色々な物を持っている。人は始めのうち、それらの物が、自分によって所有されている、単なる〝物〟に過ぎないことをわきまえている。だが人間は、これを次第に忘れるのではないか。物のほうが、自分よりも重大なことのように思えてくる。たとえば、仕事のためならば、自分という人間をダメにしても構わないと考えるようになるかもしれない。本末転倒とはこのことだ。人は、持ち物によって支配されてはならない。持ち物の主人である人間が、持ち物を支配しなければならないのではないか。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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