2023年8月13日 聖協団目黒教会 牧師 都丸道宣
「御霊の一致によって」創世記22章9-24節
アブラハムは目的地に着きました。この山は後にイエス様が十字架にかかられる場所。アブラハムの愛するひとり子イサクが献げられるのも同じ、モリヤの山です。アブラハムはここでも、これまでのように淡々と作業に取り掛かります。祭壇に献げられるイサクも何故か違和感なく、祭壇に供えられます。アブラハムははっきりと命令を告げられましたが、イサクまでそれに従うというのは、神のことばをどれくらい聴いていたということなのでしょうか?
アブラハムにとってはここは分水嶺、人生の分岐点であり、ここに進むかどうか、というのは神様との今後の関係がかかってきます。この場に望むアブラハムの姿には並々ならぬものがあったことでしょう。祈りは必死なものとなり、賛美は叫びとなっていたかも知れません。出来るならこの重荷が取り除かれるように、とつぶやいていたかも知れません。しかし、その姿を見るイサクには感じるところがありました。そして、一つの目的に向かうよう霊が働かれたのです。共に祈り、共に賛美し、共に神のビジョンに向かう、ということは信仰共同体に見られます。ときに一つの大きな目標に向かう共同体には、悩む者が出てきて、心はちりぢりとなり、そこを離れる者さえ出てきます。しかし一方で祈りは詰まれ、賛美に促され、自我を離れて主に燃やされる者たちも出てきます。そのとき御霊による一致が生まれます。
イサクはアブラハムのように淡々と従う者となりました。信仰のバトンは次世代へと継承され、アブラハムの最大の試練はここに決着を見ます。
「神の山には備えがある。」犠牲の雄羊は立派な体躯を備え、角を藪に引っ掛けています。傷はなく、献げられるときを待っています。親子は歓喜しました。安堵と賛美。感謝と祈りに栄光が加わります。神と共にいて良かった。主に信頼して良かった。犠牲の羊の炎と共に喜びは空へ上り、親子に平安が訪れます。
肉体も精神も最も充実した年にイエス様は十字架に献げられました。よぼよぼでもよちよちでもありません。天のお父様のおこころは引き裂かれ、罪の無いままで献げられる矛盾を人々は見ました。イサクを献げなさい、と主は言われました。福音のことばは愚かに響くという不思議。肉体も精神も充実した神のひとり子が権威も勢いも剥ぎ取られ、惨たらしく同胞に裁かれる、という救いようのない状況に救いが備えられていたという不思議。論理も知恵も賢さも追いつくことが出来ません。
ただ愛が響いてきます。惜しみなく献げる愛が私たちの心を打ちます。アブラハムは大切な一人息子を献げました。神様も惜しみなくイエス様を献げられました。私たちも神様の愛に応えて、大切なものを注ぎ出して、神様の愛のいのちを受け継がせていただきたいと思います。御霊はそう願う者たちに働かれます。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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