2023年7月30日 基督聖協団目黒教会 実習神学生 馬上真輝
「私たちがまだ罪人であったとき」ローマ人への手紙5章6-11節
私たちは自力で神様を知り、立ち返り、信じる力を持っていません。また、自分で自分を救うことなど到底できません。神様から離れてしまった結果、そのような弱さを抱えた私たちは、神様を恐れることなく、敬うこともなく、神様のことばに聞き従わない者でした。しかしイエス様は、私たちが弱く不敬虔だった時に、神様の計画通り、私たちのために死んでくださいました。自分が抱く正しさに妥協がなく、人に情けをかけることなく、その正義の剣を振り下ろすような人のために命を捨てる人はほとんどいないでしょう。あるいは、自分に情けをかけて優しくしてくれる人のためになら、自分の命を投げ打つ人がいるかもしれません。しかしイエス様は、私たちがまだ罪人であった時に、私たちのために死んでくださいました。イエス様が死なれたのは、過去に一度あった出来事です。イエス様が私たちの罪のために何度も死ぬ必要はありません。完全な義を持ったイエス様が、私たちの罪を全て背負って十字架上で死んでくださったからです。神様はイエス様の死によって、ご自分が全ての人を愛しておられることを示されました。私たちは、イエス様が十字架で流された血によって、神様の前に正当な存在(義)であると認められました。そうだとすれば、私たちは当然のごとく、いずれ下る神の怒りから救われるというのです。唯一の神様は、私たちが神様から離れて罪のうちを歩むことに怒る方です。その怒りは、いずれ必ず下されると聖書には示されています。しかし、イエス様を信じるなら、私たちが神の怒りから救われるのは当然のことだというのです。また、罪人であった私たちは、神様の敵であったと表現されています。私たちは神様に背を向けるような、神様に敵意を持った存在でした。本来ならば、私たちが謝罪の意を示し、和解を懇願する立場にあるはずです。しかし神様は、私たちが敵意を持っていたその時に、イエス様の死によって、神様の方から和解の手を差し伸べてくださいました。和解させていただいたのならば、死から復活され、今も生きておられるイエス様のいのちによって、永遠のいのちを受けるのは当然のことなのです。そして、イエス様によって示された神の愛、救いの確かさのゆえに、私たちは神を喜ぶ存在とされました。命懸けで愛された喜び、私たちを完全に救うことができるという確信に基づいた、神様への賛美が溢れてくるのです。私たちは以前、神様と敵対関係にあるものでしたが、今はイエス様によって和解させていただき、神様と平和の関係にあるのです。私たちがまだ罪人であったとき、イエス様が私たちのために死んでくださったならば、私たちはどのように今を生きるべきでしょうか。罪赦されたのだから、その愛に応えたいと願うのではないでしょうか。私たちは、罪人であった時にイエス様にあって赦され、愛され、義とされたのですから、罪ある自分の姿を神様の前にさらけ出し、命懸けで私たちを愛してくださった神様を喜んで歩みましょう。この素晴らしい救いの恵みにとどまり続けましょう。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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