2023年7月23日 聖協団目黒教会 牧師 都丸道宣
「ゆだねきる」創世記22章1−8節
アブラハムは約束の子イサクをついに与えられます。それから何年後のことなのかははっきり書いていませんが、アブラハムに試練が与えられます。「あなたの子、あなたが愛しているひとり子イサクを、モリヤの地で、全焼のささげ物として献げなさい。」マジか?イサクを献げる?全焼?聞き間違いだろうか、と確かめることもせず、アブラハムは次の日、朝には旅の準備を淡々とこなしていきます。
同じ箇所を何年か前に扱ったときは、アブラハムが苦悶の表情を浮かべ、一睡も出来なかったように受け取ったのですが、今回は前向きな印象がありました。イエス様がゲッセマネで祈ったときのような苦悶もあったのかも知れませんが、準備にとりかかるアブラハムには躊躇がなく、見落としもなく、付き人の数もロバのサイズもちょうどふさわしく、旅を迎えるのです。朝には覚悟が決まっているのです。夜の闇に苦痛や悩みを覚えたとしても、朝の光のなか、アブラハムは後ろ向きな思いから解き放たれています。
私は新婚の頃を思い出しました。未来とウキウキがそこにはありました。神と共にあって未来はキラキラ。なぜ、これから息子を献げなくてはならないのにキラキラなのでしょう。それは、神が仰られたことは間違いないからです。神が結びつけた結婚だから失敗はない。これから苦労も苦痛もあるかもしれないが、神様が結びつけたのだから、希望を抱く、ので間違いはないのです。
これまで罪を犯してきたかもしれなくても、これからも間違いを起こし、誰かを傷つけるだろうけれど、しかし、神様にはそれを覆う準備もあるから、進ませているのです。
実はアブラハムはこの前進に確かな保証を握っています。それは子孫はアブラハムの子を通して増えるという約束です。星の数ともちりの数とも言われています。ということは、イサクは焼かれなくてはいけないようで死なないのです。死んでも生きる。このことを神から受け取っているので、アブラハムの歩みは信仰に満ちているのです。
若い二人から離れて、親子二人で進もうとすると、イサクはささげ物のないことを不思議に思います。「神ご自身がささげ物の羊は用意される。」神に言われたとは書いてないことですが、確信的にアブラハムは答えます。神が用意される未来には私たちが憂う隙はありません。試練は重く、辛く、苦いかも知れません。しかし試練を通して主は、「わたしにゆだねきりなさい」、と仰られます。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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