2018年3月11日
「残された人生の目標」  出エジプト34:14
基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司
〝道〟というイタリア映画に、おバカな女、ジェルソミーナが登場する。ある日、ザンバーノという乱暴な男に拾われ、旅芸人にさせられる。「芸が悪い!」と、罵られ、叩かれ、いじめられる。仕打ちに耐えかね、逃げ出すジェルソミーナ。男は彼女を失い、初めて、かけがえのない存在だったと気がつく。彼女もまた、自分がいなければ商売できない彼のもとへと戻って来る。そして…再びいじめられ、叩かれながら、辻芸人として町から町へ、男のあとをついてトボトボと、長い道を歩む。
間抜けか、おバカか、少し足りないんじゃないだろうか。
食事の最中、イエスは手を止め「あなたたちの一人が、わたしを裏切ろうとしている」と告げた。「まさか」。「おれじゃないよな」。「いや、はっきり言おう。お前は今夜、わたしを三度、裏切るだろう」。そして、ゲッセマネの園での祈り。ユダが現われ「私が接吻する相手がイエスだ。逃がさないように連れて行け!」。急遽、裁判が開かれ「死刑だ!」、「死刑だ!」、一斉に声が上がる。イエスは鞭で打たれ、茨の冠をかぶせられ、群衆の前に突き出される。狂乱した群衆が、頭を小突き、唾を吐きかけ、十字架を背負わせ、刑場へと追い立てる。
イエスは、ジェルソミーナがザンバーノにいじめられたように、人間たちからいじめられた。でもイエスは、人間を見捨てなかった。ザンバーノに象徴された人間の後を、どこまでもトボトボついて、長い道を歩んだ。こんな人間どもと一緒に歩めば、十字架という惨めな死、苦しい十字架が待っている。百も承知だった。それにもかかわらず、人間を、あなたを、見捨てなかった。イエス、三十代前半の若さであり、まことに、流星のように短い生涯だった。
多くの人が、現代のような満ち足りた社会に(なにかが失われている)と思っているに違いない。いかに現代の愛がだらしない状態にあるとはいえ、多くの人の心には、何かきよらかなもの、何か健全なものを求めるものが潜んでいるのだろう。自分には出来なかったが、(こうありたかった)、(このように生きてみたかった)という人生の目標が残っていた。この世の中では実現不可能な、そして、自分の人生では実践できない純愛に、人はこころ惹かれるのだろう。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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