2023年4月23日 基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司
「実りは多いが、働き手が少ない」ルカ10:1~2その後、主は、別に七十人を定め、ご自分が行くつもりのすべての町や村へ、ふたりずつ先にお遣わしになった。そして、彼らに言われた。実りは多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい(ルカ10:1~2)。これら72人の働き手は、イエスによって遣わされる以前、どんな生活をしていたのだろうか。とりとめのない想像を巡らし(覗いたらおもしろいかも)と思ってしまう。他人の生活を一部始終そっと観察したらどうだろう。大抵は(実行しても案外つまらんよな)この予測が先に立つ。覗いて見えるものなんて、おおよそ初めから見当のつくことだし、時間がかかるわりには特におもしろいことも起こるまい。例えば、電車の席に座ったとき、色々な顔がある。(この人に熱い恋の経験なんかあったのだろうか。なかったろうな)と推測し、(そうばかりとは言えない。人は見かけによらないものだし、一人一人がそれぞれの情念の記憶をそっと胸中に秘めているかもしれない。それが人生だ)と考え直したりする。実りは多いが働き手が少ない。主は働き人を集めて遣わさねばなるまい。収穫の主が頼るべき先は、12人の構成メンバーから外れた、72人のシンパサイザーたちだった。彼らも私たちと同じような、平凡な生活を送っていたのだろうか。満たされない人生への深い恨みもあっただろうか。かつて熱い信仰に燃えたことがあっただろうか。収穫の主が最後に拠り所とするようなドラマを彼らはどこに秘めているのだろうか。収穫の主が働き手に火がついたことを知る日は本当に来るのだろうか。あの疲れたように情熱を感じさせなかったキリスト者たちが燃えている。そんな日が本当に来るのだろうか。輝きのない生活から彼らはいま解放されている。収穫の働き人たちが、人生の転機に夢中になってしがみついている。この世の底辺に突き落とされても(この信仰だけは。それさえあれば何とか生きていける。誰にも負けない幸福を感じられる)。平凡で退屈な日常と、収穫の主が最後の拠り所とする刈り入れのドラマとの対比に何を見出せばよいのだろうか。丘の斜面に72人が寄り添っているのが見える。楽しそうに語り合い、笑い声まで聞こえる。私は枯草の中に寝転んで空を見る。真っ赤に燃えた空だ。落葉の匂いを味わう。72人は立ち上がり、ふたりずつ寄り添い歩き、遣わされて行く。これまで見ていた72人ではなかった。あの疲れたような姿とは他人であった。別な生命を吹き込まれたように、踊り出すように生き生きしていた。炎がめらめらと見えるようだった。72人のたたずまいは人間の計り知れなさを漏らして間然するところがない。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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