2023年4月9日 聖協団目黒教会牧師 都丸道宣
「約束のとおり」創世記21章1-7節
主の約束は約束のとおり、サラを通して成就しました。ハレルヤ!妻を王に差し出したアブラハムに、神様からの逆転勝利が飛び出したのです。王への祝福の祈りが聞かれると、サラの胎に子が宿りました。アブラハムの体は老いていて、サラの肉体も子どもを望める状態ではないにも関わらず、神は超自然的に子を授けられました。計画どおり、遅れることなくでした。
アブラハムは従順さを取り戻します。命じられたとおりイサクと名付け、割礼をさずけます。肉が裂かれ、血が流れます。十字架の血潮がそこに見えてきます。息子の血が流され、両親の胸には割かれるような痛み。その痛みの中で、罪の汚れのためには血が流されなくてはいけない、贖いの摂理を知るのです。肉は断たれ、霊にいのちが注がれます。アブラハムの肉体は衰えましたが、霊の目は開かれます。神は死をもたらすためでなく、いのちを注がれるために困難を体験させたのだと気付きます。
「キリストとその復活の力を知り、キリストの苦難にあずかって、キリストの死と同じ状態になり、何とかして、死者の復活に達したい」ピリピ3:10,11
パウロはその完全な状態を捕らえようと追求している、と言います。私たちの人生はキリストに救われてから、その復活の完成に向かう歩みが始まったのです。親しい人との小さな争いや、信頼する人への小さな落胆は、完成に向かう道筋と言えるでしょう。成功からの転落も人生の停滞も、謙りを学べます。忍耐が呼び起こされます。十字架の主を仰ぐのは低い姿勢からなのです。地べたに近付くなら、より高く、輝く十字架を見られます。キリストの復活をもっと知りたい、という人はキリストから捕らえられるのです。
復活の力とは約束の成就です。肉体の限界を超えた神の超自然的介在です。弱さを存分にさらけ出したところに、美しい神の時として、圧倒的に現れます。アブラハムがサラを差し出した後にです。サラは自分の老いに囚われ、神を見くびった後にでした。
復活の力とは神に従うことです。イサクと名付け、割礼を施しました。パウロは十字架に従うことだと言います。罪を御前に差し出し、十字架を仰ぐことです。救いは一度ですが、復活の完成に向かって何度も十字架の前に立つことがあるでしょう。それは人々に和解をもたらし、これまで以上の神との深い関わりに導かれる和解のときです。他者への不満と批判が剥がれ落ちていきます。天から新しい価値観が訪れるのです。
ですから、復活の力とは新しい自己肯定感の訪れとなります。こころの奥底から明るい笑いが溢れて来ます。イエス様は復活の挨拶を「喜びがあるように」としています。この喜びとは天から来るもので、神があなたを全面的に肯定する声です。復活の主を歓迎いたします。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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