2023年1月22日 基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司
「モーセの夢―自由、抵抗、革命、独立―」詩篇139篇
エジプト第19王朝。ファラオは名高いラムセスⅡ世。ヤコブの子、ヨセフを愛したファラオから遠い世代になっていた。今のファラオは、ヘブライ人ヨセフの施策と功績は記録を読んで知っていたが、ただそれだけのことであった。それどころか、今やヘブライの民は、ファラオにとり悩みの種となっていた。強靭な生命力を持って、エジプトの国を埋め尽くしている。反ヘブライの気運が熟し、新生児はナイルに捨てられることになった。こうして、モーセとファラオの戦いが始まった。イスラエルの民の心は、頑迷で暗かった。ファラオとの戦いの間中、彼らは泣き叫び「昔は良かった」と呟いた。藁と泥を与えられた頃を思い出し、仕事に追われていた状態こそ、望むべき有様であった。だが、時は来た。地の塵を無数の蚊に変え、疫病をエジプト中の家畜に招き寄せ、天から降るかまどの灰に触れた者は、不治の腫瘍に蝕まれて、のたうち回った。ファラオはモーセを呼び寄せた。「さあ、行け。望み通り行くがよい」。ヤコブがエジプトに移住して430年が経っていた。
一行はシナイ山の麓にまで来た。モーセは山頂に向かい「十戒」を授かる。民らはアロンの前に来て言った。「眼に見えぬ神を拝むのは難しい。手で触れぬ神を崇めるのは難しい。我らの先頭に立ったモーセはどうなったのか?何かが先頭に立ってくれねば困るのです。拠り所が欲しいのです。アロンは言った。「金の耳飾りを外して持ってきたらよかろう」。金はおびただしい量に達し、鋳型に入れて仔牛の像を一体造った。人々は金の牛の形を見て安堵した。(眼に見えることの何とこころ安きことよ。手に触れ、手に抱くことのできる像の何とこころ休まることよ。見えざる神を、超絶した存在を信じよ…と。それは困難だ!)。
あのお方は弟子のトマスに語る。「トマスよ。不信の者とならず。信じる者となれ」。教会は、見ずして信じる時代の象徴として生まれようとしていた。「お前は見たから信じた。見ずして信じる者こそ幸いなのに」。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です