2023年01月15日 基督聖協団目黒教会 牧師 横山さおり
「イスラエル」 ローマ9:6~13
待望のメシヤを十字架にかけたイスラエル。イエスとイエスを信じたユダヤ人の議論がヨハネ8章31節から始まる。イエスはユダヤ人たちの信仰が人間の内面にある罪を認識していないうわべの信仰であることをご存知だった。信仰の深みに導こうとされるイエスにユダヤ人は反発した。アブラハムの血筋であることを誇り、自分の正しさを主張し続けた。そして罪に光をあてようとするイエスに対し、怒りと憎しみを向ける。もし彼らに謙虚に自分の心の内側を見つめる目があったなら、イエスの真理のみことばは彼らに真の自由を与えたことだろう。しかしユダヤ人は傲慢と霊的無知のなかにあった。光であるイエスに対する怒りと憎しみは、イエスを十字架につけろと叫ぶ声に変わる。霊的無知を聖書では「闇」と表現している。闇は人を罪へと導く。しかし、このように心を頑なにしたユダヤ人はイスラエルの一部であった。
イスラエルが捕囚とされた時代。神に対して心を頑なにしたのは、王、偽預言者、祭司だと記されている。だが、哀歌にみられるように、神にすがり、神にのぞみをおいて祈るイスラエルがいた。つまりキリスト者たちの信仰が全て同じレベルでないように、ユダヤ人たちの信仰も同じレベルではない。だが神は、心を頑なにしたイスラエルをも時が来たならばお救いになる。パウロ自身教会と使徒たちを迫害して闇の中にいたが、イエスに出会い、神の光へと引き戻した。一方、パウロは神を信じるイスラエルについて語る。ヤコブはずる賢く、兄と父を騙して長子の権利を自分のものにした。だが神と対峙し格闘する時が与えられ、必死に祝福を求めるヤコブは神と出会い自分の力を砕かれて新しい人とされた。ヤコブに与えられた新しい名はイスラエル。「イスラエルから出た者が皆イスラエルなのではない」とは、ヤコブの血筋がその人を神の子とするのではないとの意味だ。人間としてどんな弱さを抱えていても神に真剣にすがる心を神は退けない。ご自身を恐れる者をあわれみ、愛してくださる。この信仰を持つ者こそアブラハムの子孫として認められる神の子なのだ。神はアブラハムから始まったイスラエルの系図の流れの中でご自身の祝福と約束を受ける神の子を選ばれた。イスラエルの中には心を頑なにしたイスラエル。アブラハムの信仰に倣うイスラエル。イエスを信じるイスラエルがあるが、聖書では全てがイスラエルと表現されている。完全な信仰者であられるアブラハムの子孫イエスは救いの道を開かれた。時が来たならば神はイエスを通してイスラエルをみな救われる。キリスト者とされながらも闇に迷い生きる人にも神は同じ希望を与えてくれる。イエスの光は闇を切り裂き闇は光に打ち勝つことはない。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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