2023年1月8日 基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司
「内なる問いかけ」マタイ5:21~24
ローマに旅立つ前、総督フェストに自らの信仰を説く機会を得た。ダマスコ途上で、復活のイエスに出会ったこと。そこでイエスの啓示を受け、福音に仕えるようになったこと。だがそのような啓示は、ローマ人総督の理解を超えるものだった。「…フェストが大声で、『気が狂っているぞ。パウロ。博学があなたの気を狂わせている』と言った」。「フェスト閣下。気は狂っておりません。私は、まじめな真理のことばを話しています。(使徒26:24~25)。異常か、正常か…。信仰にとってその線引きは簡単ではない。私がマインドコントロールの言葉に違和感を覚える所以であり、狂気と正常は、ある明確な一線を境にキッカリ左右に峻別されるものではない。もちろん大部分の人間は正常であり、また、ひとめで狂気とわかる人間もいる。だがその境界線あたりに位置する人も当然存在する。フェストにとってパウロはそのような存在ではなかったか。「もし私たちが気が狂っているとすれば、それはただ神のためであり、もし正気であるとすれば、それはただあなたがたのためです」(Ⅱコリント5:13)。パウロは熱烈な宣教者であっただろう。「イエス・キリストを信じない者は馬鹿だ!」くらいの居丈高な態度を採ることもあっただろう。だから相手には「こいつ、自分を何様だと思っているんだ」と誤解されることもあった。「ユダヤ人たちは…パウロの話に反対して、口ぎたなくののしった」(使徒13:45)。諸民族の中で、ユダヤ人ほど正・不正の判断にこだわり続けた民族はいない。だから彼らは律法の中で生きて来た。しかし、キリストの出現を境に世界は変わった。法的には抵触しないが、「道義的責任がある」の表現はそのあたりの事情を訴えている。今は文字に書かれたトーラーを守るのではなく、信仰という内なる問いかけを仰ぎ、善悪を判断しなければならない。こうした行動様式は、信仰のない者からみると、いかにも異様に映る。律法学者やパイサイ人らがパウロを特殊な眼で眺めたのは、〝信仰〟という内なる問いかけの精神であった。「『人を殺してはならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。また、『ばか者』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい(マタイ5:21~24)。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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