2022年12月11日 基督聖協団目黒教会 牧師 都丸道宣
「どんなに消極的であっても」創世記19章15-29節
ロトをメインで語ると、なんだか寂しい気分にさせられます。義人と呼ばれているが、どこがどれくらい義人なのか、ついあら探しをしてしまいそうになります。しかし、ロトは町の中で唯一、神様の警告に耳を傾けています。ためらいつつも、神の積極に付いていっています。主は本当はソドムも滅ぼしたいわけではありませんでした。しかし、人の罪は植物や土地をも汚し、もうどうしようもない状態になっていました。それで、その土地にいては滅ぼし尽くされてしまうので、信じたロトとその家族は町を逃れるようにされました。
ロトの初めの消極は町を出るときです。さあ立って、行きなさい。御使いの号令が響くと、ロトが走り出す、かと思うと、ためらっています。御使いは4人の手を取って町の外まで連れ出します。次の消極は、山まで一気に走りなさい、低地は危ない、と急かされるも、それは無理です、と答えたところです。あの小さな町までならオッケーなんですが、と本気で抗っています。頭の中にはソドムの暮らしがチラついています。その思いを代表するかのように、妻は振り返って塩の柱となり、滅びに飲まれてしまいました。
その頃アブラハムは、主と語り合った場所に立ちました。粘り強いとりなしを祈ったところです。ソドムの方を見ると、煙が上がり、祈りの答えが出たと分かりました。町は滅びた。ただロトは滅んでいない。小さな町を眺めながら、そのような確信を掴んでいたことでしょう。
ロトの親子は救われました。町を滅ぼす、という神からの言葉を信じ、町を出たからです。町の人々は直接言われても誰一人信じませんでした。しかし、ロトは信じて救われました。アブラハムのとりなしと、ロトの願いは主に答えられたのです。
ためらいがあり、否定的な思いさえありましたが、主の言葉をそのまま受け止めることによって、救いの道は開かれました。
私達の救いもそうだったのではないでしょうか。そこには信仰と呼べるようなものはほとんどなかったのに、主によって救いがもたらされたのではなかったでしょうか。信じるまではためらいがあったのに、信じてみるとこれまでに経験したことのない平安に満ちたのではないでしょうか。自分の力ではなく、誰かの祈りや促しに導かれることによって、愛の深みに入り込んでいったのではないでしょうか。
消極的であっても、主は積極的に救いを進めてくださっています。だいぶ前に一度だけ祈ったことがあったなぁ、ということでも、そこまで信じて祈ったわけではないことでも、主は真摯に向き合ってくださいます。主の誠実を喜び、どんな不可能に思えることも祈り、さらに主に信頼出来るよう、願っていきたいと思います。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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