2022年11月27日 基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司
「雷(いかずち)の隠れ場から」詩篇81:6~8
イエスの言葉である。「天の御国は、畑に隠された宝のようなものです」(マタイ13:44)。つまらぬ人生。せめて自分も何か素晴らしいお宝を発見しないものかと胸をときめかせたい。イエスとは、素晴らしい宝が埋まった畑のようなものだ。ちょっと眺めたくらいじゃあ、その価値はわからない。だが求める心で眺めるならば(素晴らしい畑に違いない)と、その言葉に、その生きざまに、何かしら宝としての片鱗を感じるだろう。
「イスラエルの神、救主よ、まことに、あなたは/ご自分を隠しておられる神である」(イザヤ45:15)。地味なみ言葉で、何も見つけられず、通り過ごしてしまいそうだ。だが宗教改革者は、このみ言葉に鍬を入れて畑を掘り、隠された宝を見つけ、掘り当てた。
本来ここは単純に、我々によく理解できない神を言い表している。(結局、神さまってよくわからんねえ)である。これでは宝が隠された畑とは言えない。
愛とは反対の態度、振る舞いがある。病苦、試練、貧困、欠乏…。神の怒りを感ずるに事欠かない生活があり、日常がある。〝隠されている〟。病苦、試練、貧困、欠乏の下に愛を隠しておられる神。それを畑から掘り当てる。
〝先生、神の愛が実感できません〟。実感とは、暑い、寒い、皮膚感覚でわかるもの。実感主義の誘惑である。信仰が生きて働くのは、皮膚感覚で実感できなくとも信じるときである。神があなたを捨てるのではない。あなたが神を捨てるのだ。
ルターの言葉である。「神はご自身の愛と善意を、怒りと刑罰の下に隠したもう。永遠の慈しみを永遠の怒りの下に、この世の善は、あたかも正反対のものの下に隠されている。我々の命は死の下に、喜びは憎しみの下に、栄光は屈辱の下に、救いは滅びの下に、御国は地獄の下に、知恵は愚かさの下に、義は罪の下に、力は弱さの下に隠されている」。
愛などとは思えない態度、振る舞いを信じないことだ。宝は荒れ果てた畑の中に隠されている。飽くことなく探し求めることだ。病苦、試練、貧困、欠乏の畑に、宝を隠しておられる神を…。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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