2022年11月20日 聖協団目黒教会 牧師 都丸道宣
「それは悪い冗談のように思われた」創世記19章1-14節
相手のこれからの人生に大きく左右すると思われるほどに、切実で切羽詰まったことなので、軽く聴いてほしくはないのに、相手には悪い冗談のように受け取られてしまうことがあります。ロトの説得は娘婿たちにそのように受け止められました。
そもそもロトはこの町で有力者として過ごしていました。町ではさばきや相談ごとを担っていたようです。ただ、二人の(おそらく見目麗しい) 御使いが町に入ってからの町の人々からロトへの視線は冷たい。御使いもなぜかロトの「立ち寄ってください」との申し出を一度断っています。なぜなのでしょう。
アブラハムの場合は違いました。彼の近所に住む人たちは異教の神を拝む者たちでしたが、ロトがさらわれるという事態が起こったとき、奪還のため敵地に攻め込もうとしたアブラハムに、共に戦おうと戦列に加わっています。おそらく、アブラハムの普段がロトとは違ったのでしょう。日常的に関係や愛を育んでいたのではないでしょうか。
ロトが御使いをどうにか家に招き入れても妻や娘は顔を出しません。アブラハムは妻をエジプトの王に差し出してしまったこともありましたが、妻はそのことを引きずったり、アブラハムに愛想を尽かせたりせず、御使いたちが来たときには対応を惜しんでいません。
私もロトのように自分だけが神から喜びを受け取り、感謝しているからそれでいい、と考えているところがありました。有事の際にはそんな人に誰がついていきたいと思うでしょうか。一人よがりの信仰者は義人と呼ばれたとしても、何か寂しさがまとわりつきます。何か大事が起きれば、その人が普段周りにどのように思われていたかが露わにされます。ロトは町の有力者でした。父親であり、家族を築き上げてもいました。 義人として荒野の旅人をもてなしもしましたが、その義は広がっていませんでした。
イエス様の十字架の死と復活はあなたのものですが、あなただけのものではありません。全ての人々のための聖いささげものです。イエス様の犠牲を独りよがりで死んでいった義として扱ってはいないでしょうか。その愛を、自分が慰められたというところでとどめていないでしょうか。罪の中でもがいている隣人のために、日常の何気ないところから、この愛のメッセージが溢れ流れ出るように、自分の心と霊に、体と仕草に、染み渡らせていきたいものです。十字架のメシアはもっと多くの罪人が、この愛の救いを受け取ってほしいと願っておられるのです。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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