2022年11月13日 基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司
「虫けらのごとくなり」詩篇22:6
「イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた」(マタイ4:1~2)。
極度の衰弱と飢え、そこに闇の力(サタン)が現れる。
「光は世を訪れたが、世はそれを知らなかった」(ヨハネ1:9~10)。だが知っている者があった。闇の力である。闇は光を斥けねばならぬゆえ、光を知る。己が支配する闇の世に、光として介入しようとする者に。
ルカは「誘惑の手を尽くしたあとで、悪魔はしばらくの間イエスから離れた」(4:13)と注意深く記す。〝しばらくの間〟〝定められた時の来るまで、いっとき去った〟人間の救いを欲しない闇の力が、その知恵と能力の限界まで奮い立たせ、決定的な最後の戦いの舞台に再び戻るのは三年後、ゲッセマネの園、オリーブ山からゴルゴタと呼ばれる地区にかけてである。ゲッセマネへの道すがら、あのお方は弟子らに語りかけた。「財布も旅の袋も履物も持たせず、お前たちを遣わしたことがあったな。何か不自由だったか」「いいえ何も」「だが今は財布をもつ者は持て。袋を持つ者は持て。剣を持たぬ者は買い求めよ」。イエスに従う者たちは、押し寄せる闇の力に囲まれる。剣を握り、闇の力と戦え!なぜなら、お前たちは、何の抵抗もせず捕らえられるメシヤにつまずき、逃げ去るからだ。「牧者をまず撃て、されば羊は散る」(ゼカリヤ13:7)。
ゲッセマネの苦しみは、パウロ書簡により明らかにされる。「彼は我らのために呪いとなり…」「罪そのものとなった」。拷問、虐殺、強姦、盗み…罪の呪い、そのものとなったお方の心中を理解するのは不可能だが、詩篇の記者はそのかすかな一片を伝えてくれる。「虫けらのごとくなり、人とも見えず。人間の屑。人間の恥」(詩篇22:6)。
(やめようよ、十字架なんて。やめようよ…)闇の力の訴えが心地良い。「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。…光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した」(ヨハネ1:9,3:19)。あのお方の身体に断末魔が来た。「成就した」と叫び、「父よ、御手にわが魂を」と言い終え、頭を垂れ、息を引き取られた。「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった」(ヨハネ1:5)。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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