2018年2月25日
「救いは、どこに落ちているかわからない」
黙示録5:12~13
基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司
ある日、ヨハネが天を仰ぎ見ていると、天の一郭に門が開かれ、ラッパが響くような声が聞こえた。「ここへ上がって来い。こののちに起こることをあなたに示そう」。
聖書が示す終末への信仰…〝終末〟とは、歴史に結論が出される〝時〟である。歴史に〝はじめ〟を与えた神は、歴史に結論を出す責任の所有者である。この結論への方向づけは、キリストの十字架により一つの突破口が与えられている。
「彼らは大声で言った。『ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。』また私は、天と地と、地の下と、海の上のあらゆる造られたもの、およびその中にある生き物がこう言うのを聞いた。『御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。』」(黙示録15:12~13)。
5章13節に「御座にすわる方と、小羊とに」とあるが、 「御座にすわる方」とは、栄光の神である。ここでは栄光の神と並び、「小羊」として登場するキリストが賛美されている。本来、小羊とは、「栄光」や「勢い」、「力」、「富」などとは、ほど遠い存在である。ところが小羊キリストが、「御座にすわる方」であられる全能の神と一緒に、「栄光」や「力」を帰せられている。と言うよりも、賛美の中心は、もはや小羊イエスである。「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です」(5:12)。ここでは、小羊だけが賛美されている。しかも、この小羊は、「ほふられた小羊」(5:12)、ほふられている。「栄光」や「力」、「富」とは、縁遠い存在、小羊。しかも、ほふられているのだから、これほど頼りない姿はない。だが、聖書の説く救いは、「ほふられた小羊」(5:12)にこそ隠されているとし、これに究極の「栄光」をささげている。
イザヤは、ほふられた小羊の受難を預言して次のように記す。
「彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ…私たちも彼を尊ばなかった。彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない」(イザヤ53:2~3、7)。
「ほふられた小羊」。人間の救いは、どこに落ちているかわからない。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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