2022年10月23日 聖協団目黒教会 牧師 都丸道宣
「現れたーパート2ー」 創世記18章16-33節
アブラハムに訪れた旅人三人は神様御一行様でした。遠くソドムとゴモラを見下ろしながら、これから滅ぼそうとしていることをアブラハムに伝えると、先行して二人、ソドムの方に進みます。主は立ち止まり仰られました。「見て確かめたい。」 ソドムとゴモラの魂の叫びは本当なのか、 実際に行って確かめるまで決して愛する被造物を滅ぼすことはしない。滅ぼしたいのではなく、救いたいからあらかじめ伝えたのです。 アブラハムはすぐに反応します。五十人正しい人がいたら、滅ぼし尽くされないでしょうか。四十五人もしいたら… もしか すると四十人。 お怒りにならないで、三十人もし見つけたら…。実際現場に出向いて正しい者の数を数えられるのは神様だけです。労を惜しまずに、もしそれだけ見つけたら、滅ぼすのはやめよう、と訴えに真実に向き合います。 神様は人を愛しています。出来ることなら滅ぼしたくはない。ですから、神に従順で、信頼したいと思っている人の心からの願いに耳を傾けてくださっているのです。
もし、十人しかいなくても、滅ぼすのをやめてくださいますか。 滅ぼしはしない、その十人のゆえに。アブラハムは交渉をそこまでです。 ロトの家族の人数は十人。 ロトの家族に最後の期待を込めて切り上げたのでしょうか。 ちりや灰に過ぎない、と自分を最大限に低くしたアブラハムの、謙遜で大胆な交渉は終わりました。
主はサラの出産の備えのために現われました。夫婦の信仰の一致が約束の出産に必要だったからです。またアブラハムがあらゆる国民の父として歩むために、ロトの住む町を滅ぼすという課題を携えて現れました。 この課題に向き合う中で、 神の友と呼ばれるにふさわしい働きをすることとなりました。それは罪人の身代わりとなって祈るということです。正しい人がそこにいるなら、悪人は救ってください、というのは普通に考えると理不尽な願いです。 被害者がいるなら、それはないでしょ、と言われます。犯罪者の仲間か、と叩かれる行為です。しかし神の御心です。御心と一つになった愛のとりなしです。イエス様の十字架の犠牲です。
神様に愛されて、神の友と呼ばれて、アブラハムはイエス様のように、愛を働かせることが出来ました。
私たちも一人ひとり神様の愛に包まれています。隣人を、また罪人を、イエス様のように、愛で見つめていきたいと願います。人々を裁くためではなく、全ての人を愛するために、神の友としてとりなし、祈り続けたいと思います。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です