2022年10月02日 基督聖協団目黒教会 牧師 横山さおり
圧倒的な勝利者 ローマ8:35~37
人間の内にある「神の御心より自分の思いを優先させる」という罪の法則は、イエスとともに歩みたいと願う神の子を縛りつける。その力の強さに人間は全く無力であることを神はこの世界に存在する誰よりもご存知だ。父なる神、御子イエス、聖霊は無力な神の子たちを愛で包む。御子イエスが流された血は、父なる神の御前で神の子たちが義であることの圧倒的な証拠として赦しを語る。さらにイエスは、神の子たちの弱さを神の御前にとりなされる。また頼りない足取りでご自身の足跡に倣い行く者に隔ての無い親しみをこめて兄弟、姉妹と呼ぶ。聖霊は私たちの内にあって絶えず教え、とりなし、慰め、励ます。このように父なる神、御子イエス、聖霊の神の子たちへの想いは圧倒的な愛である。パウロは宣言する。あらゆる苦難、苦悩、剣も、イエスの愛から神の子を引き離すことは出来ないと。ここでパウロは詩篇を引用している。詩篇の一つ一つの詩には絶対者であり人格をお持ちである神を仰ぎ、信頼する信仰が貫かれている。イスラエルの民が神から授けられた律法を尊び、神の民としての生活に励んだ生活から生み出された詩だ(詩篇44篇)。イスラエルの民が神に敵対する時、苦難と苦悩が彼らを捕らえたことは旧約聖書に記されているがこの詩は神の御心に従って歩む神の民イスラエルを襲った苦難と苦悩を嘆く詩だ。神の子として歩む者は、時に苦難、苦悩、迫害、危険に見舞われる。ヨブは神を恐れ、潔白で正しい人だった。多くの富を持ち地方一番の有力者だったが一日のうちに全財産と7人の息子3人の娘を失った。そしてヨブ自身は重い皮膚病にかかり惨めな状態に陥る。ヨブのこの試練で神とサタンのやりとりが始まりだった。神はヨブの信仰を見て満足していたが、サタンはヨブの全財産を打ち、健康をも打つよう提案する。ヨブの信仰が熱心なのは自分の富を守るためにすぎない。財産を失い家族を失い健康を失ったならヨブは面と向かって神を呪うに違いない。こうしてヨブの信仰が試されることになった。しかしヨブは全てを失っても詩篇の作者のように絶対者なる神、ご自分の民を愛する神を信じ続け、神が与えた試練の答えを待ち望んだ。人間の信仰は利己的だ。家内安全商売繁盛という願いは神の子の願いだ。神は地上での生活をも祝福してくださるお方だ。ただ神の子が試練を通され神に沈黙され大切なものを失うとき、精錬された金のように利己的な思いが焼かれ、ただ神の栄光のためにのみ神を信じるという信仰へと導かれる。新約の今を生き、試練と戦う神の子たちを支えるのは聖霊なる神であり、先駆者イエスだ。このお方は試練にある者の唯一の理解者だ。イエスはあらゆる試練におかれている神の子たちの模範として究極の苦悩を体験された。神であられるお方が神としての栄光も位も捨てた。人間の身代わりとなって十字架にかかり、呪われて審きを受けた。よみがえり、栄光を受けたイエスは神の右の座に着座し、神の子のためにとりなす。「これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました」(ヨハネ16:33)。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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