2022年9月4日 基督聖協団目黒教会 牧師 横山さおり
「神がともに」 ローマ8:31~34
神の子たちに対する愛と忍耐は人の考えを超えている。ヨナの警告を受けて神をおそれ心から悔い改めた異教の人々に対する神の寛大な心に、ヨナは不満と怒りを隠さなかった。怒りつつ死を願うヨナを神は諭す。「あなたは、自分で労さず、育てもせず、一夜で生えて一夜で滅びたこの唐胡麻を惜しんでいる。ましてわたしは、この大きな都ニネベを惜しまないでいられるだろうか。そこには、右も左も分からない12万以上の人間と、数多くの家畜がいるではないか。」このおことばに右も左も分からない罪人を深く哀れむ創造者である神の愛を知る。イエスはわたしが来たのは正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。と語られた。罪人を求める神の愛は人間の醜悪な姿にひるむどころか強く燃え続ける。神は聖なるお方。また義なるお方。悪と罪を憎むお方。罪に対しては代償を求められる。神は罪の代償として命を求められる。血を流すことが無くては罪の赦しはない。神のきよさ、正しさは完全で人が神に近づくことをゆるさない。しかし神はアブラハムを選び、神の側からの一方的な恵みの契約を結ぶ。神の方から罪ある人間に近づかれたのだ。それはアダムが犯した罪によって罪に縛られ滅びに向かって生きる人間を救い、罪から解き放ち永遠のいのちを得させるためだ。きよく義なる神はイスラエルとともに歩む。イスラエルが神に背き他の神々を拝むとき神の怒りと審きがイスラエルを打った。神の審きはイスラエルを神に立ち返らせる。何度も同じ過ちが繰り返されても神は杖と鞭でイスラエルを導かれる。「神は愛です。」神は聖で義なる方であり、ご自身に逆らう者をも愛するお方。神の愛は強く、諦めず、どこまでも忍耐深く人が神に立ち返ることを待つ。イスラエルに現わされている神の愛は、霊的にアブラハムの子孫とされた私たちにも同じく注がれる。神の子の使命は神の子がイエスに繋がり多くの実を結ぶことにより神の御名が崇められ神が栄光をお受けになり、私たちの内にも神の喜びが満ち溢れるためだ。ワルケンホーストは、信仰者の頂点は栄光を受けること。栄光から栄光へとイエスに似たものと変えられることであり神の栄光にあずかることは神を愛するという最高の愛の実現である。と述べている。旧約でも心を尽くし思いを尽くして神を愛すること。また隣人を愛することが命じられている。神を愛することは隣人を愛することに直結する。旧約の時代、人はこの律法を守ることができなかった。しかし新約の今、実を結ぶための闘いは人間だけの闘いではない。もし人間だけで立ち向かうなら勝ち目などない。なぜならパウロが「私は本当に惨めな人間です。」と嘆いたように私たちは肉体を持つ間、罪の律法に縛られているからだ。しかし今は聖霊が私たちの内におられる。神はご自身のこどもたちを神の子としてふさわしく整えるために訓練される。ぶどうの木に繋がる枝は多くの実を実らせるために農夫から剪定をうける。剪定は木に花や実をつきやすくするための刈り込み作業であり痛みと苦痛が伴う8:28を詳訳聖書は「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、(神は彼らと産みの苦しみをともにしてくださるかたであるので)すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。」とされており、「神は彼らと産みの苦しみをともにしてくださる」ということばが補足されている。神の訓練の激しい痛みと苦しみの渦に巻き込まれている最中にも私たちは一人ではない。弱り果てた私たちに先立って戦われる神がおられる。私たちの内におられる聖霊のとりなしがうめきとなって神にささげられ、イエスは流されたご自身の血を携えて天にのぼり、神の右に着座され兄弟である私たちのためにとりなし祈られる。父なる神、主イエス、聖霊は私たちの前に進み戦い、ともにうめきながら絶えず強いエールを送ってくださっている。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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