2022年08月07日 基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司
「教会」使徒1:8~9
ユダヤ教の権威筋らは、イエスをメシアと仰ぐ新団体の成長に我慢ならなかった。「その日、エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり…みな、ユダヤとサマリヤの諸地方に散らされた」(8:1)。「ユダヤとサマリヤ」とあるが、あのお方はかつて命じられた。「あなたがたは力を受け…ユダヤとサマリヤの全土…地の果てにまで、わたしの証人となります」(1:8)。ユダヤ、サマリヤに散らされた信徒らは、予期したものとは異なるきっかけで、あのお方の証人となったのを知った。彼らは、教会を携え、教会を背負い散っていった。落ち延び、住み着くところに教会を…それは建物としての教会ではなく、生きた共同体、眼に見えぬエクレシアがつくられていった。建物は立派だが、いたわりも愛もない…そんな集合体ではない。エクレシアは肉の眼を閉じ、心の眼で見、感じるものだ。奇跡の時代…その終わりが近づいていた。教会は〝見ずして信ずる時代〟の象徴として誕生しようとしていた。だが初めての教会が誕生した紀元30年、ペンテコステの祭り、初めて教会が生まれた日に大いなる奇跡が伴った。「初めて」…、どんなことでも本当の初めてを決めるのは難しい。建物の初めてなら、バシリカ式、ビサンチンやロマネスク等々。しかし、ひとつの絆で結ばれた人たち…その集まりを教会と呼ぶなら、紀元30年ペンテコステの祭り、これが〝初めて〟の教会だろう。その日、漁師出身の無学な使徒たちが、聖霊に満ち、色々な国の言語で語り出した。創世記11章…その頃、地上の人間は同じ言葉を話していた。驕り高ぶる人間ども、傲慢の現れは高い塔を作って神に近づき追い抜こうとする。神は人の姿を悲しまれた。突然、言葉が通じない。理解し得ない「異なる言語」。言葉だけではない。一致できない混乱、人の心を推し量る事のない無理解…共同作業は続けられない。人々は作りかけの塔を残して散って行った。その日、無学な使徒らが、色々な言語で語り出す。それは新しい救いの言葉であり、人間の無理解、混乱(バベルの意)を、和合、合一に導く教会誕生の象徴であった。この世の混乱は闇の度合いを濃くするだろう。だが教会は、新しい救いの言葉で世の光となる。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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