2022年7月24日 基督聖協団目黒教会牧師 横山さおり
「神の子の忍耐」ローマ8:18~25
長いときを経て、イスラエルから遠く離れている私たちにも福音が届けられ、こうして教会に集って神を礼拝していることは、この地上での神の国、神の支配を拡大される聖霊の権威と力によってなされたこと以外のなにものでもない。そこには、聖霊に励まされ、どのような迫害にも屈せず、イエスの戒めに従った殉教者たちの存在があった。神の子には苦難があり、迫害のように外から来る苦難、聖霊によって肉を殺す内的な闘いがある。迫害により、肉体的、精神的苦しみを受ける者、ときに財産を奪われ大きな損害を受ける者もあった。神の戒めより、自己の意思を優先する偽教理の惑わしもあった。神の子の悩みと闘いは、神のご計画に逆らうサタンの激しい攻撃である。教会はこの霊的な激しい闘いの狭間にある。パウロはこのような苦難は後に神の子たちに与えられる栄光に比べたら取るに足りないと述べる。やがて神の子は、罪の法則に縛られない栄光のからだを着て、永遠に父なる神と御国に住む希望を与えられている。迫害の中を通った信徒たちはこの神の国を希望とし忍耐をもって戦い抜いた。人は目に見える幸せを追い求めるが、神が真に与える幸いは目に見えないものだ(マタイ5:3~12)。詳訳聖書では次のように補足されている。心の貧しいもの(自分を霊においてつまらない者と評価する謙遜な人)。柔和な者(穏やかな、忍耐深い、辛抱強い人)。義に飢え渇く者(まっすぐであることと、神の御前での正しい身分)に飢え渇く者。平和をつくる者(維持する人)。「幸いです」には(幸せである、うらやましい状態にある、霊的に栄えている)と補足されている。説明では(外側の状態にはかかわりなく、神の愛顧と救いに生命の喜びと満足を得ている)とある。自分を霊においてつまらない貧しい者と認識し、謙遜であること。正しくまっすぐであることに飢え渇きをおぼえ、神の御前にへりくだった位置にあることを求めること。平和を忍耐強く維持する。こうした人の内側にもたらされる霊的な祝福こそ真の幸いである。イエスは地上に付ける喜びに無関心だった。財産の分配のために間に入って欲しいと訴える者に、ただ貪欲に気をつけるようにと忠告を与えた。人の心の中に神の支配と神の義がなることを優先して求めるなら全ての必要は与えられると教えた。だが人は目に見える幸いを追いかけることに心奪われる。十人のハンセン病患者はイエスにすがり、癒さる奇跡を体験した。そのうち九人は奇跡を現わした救い主に注目することなく、病から解放された快適な日常に戻っていった。彼らが救い主に出会うことこそイエスが願っていたことだが、宝を得たのは一人のサマリヤ人だけだった。聖霊に導かれて歩むなら、神が喜ばれることを選びとる。反対者から迫害を受けることは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい、とイエスは語る。その苦しみはイエスの苦しみの欠けたところを満たすことであり、天においてイエスが栄光をお受けになられたように大きな報いを与えるものだ。人が罪を犯したことにより地は呪われ、冷酷な生存競争が当たり前に繰り広げられる世界となり、自然界もともに贖われることを切実に待ち望んでいる。人が栄光のからだにかえられるとき、被造物も虚無に縛られた奴隷の状態から解放され、栄光の自由に入れられる(黙示録21:1~5)。神は聖霊に依り頼み従う神の子たちを通してこの地の上に神の支配を推し進め、最後にはキリストが再び来られることによって実現する神の国を打ち立てられる。教会と信徒に対する激しい攻撃は、今なお止むことはないが、私たちにはいつも離れることのない聖霊の守りとイエスのとりなしがある。それは力強く、大きな慰めと励ましだ。神の子は、地上で受ける苦難と内なるうめきに忍耐しつつ、聖霊にすがりながらイエスの戒めに従い歩む。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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