2022年03月20日 基督聖協団目黒教会 牧師 横山さおり
「イエスのくびき」 ローマ6:15~23
救い主イエスは、へりくだったお方で柔和である。イザヤ53章の苦難のメシヤ予言は、罪のないお方が裁かれる様子を〝黙して屠り場に引かれていく羊のようだ〟と予言する。また、力強く地面を蹴りあげる駿馬に股がり群衆を見下ろす煌びやかな王ではなく、荷物を運ぶ子ロバに乗り、群衆の間を通りエルサレムに入城された。柔和で優しい救い主イエスの愛に身をゆだねよう。神に属する者とされた私たちを誰も罪に定めることは出来ない。イエスの血が流されたからだ。その血は神との新しい契約であった。古い契約では動物の血が流されたが、罪のないお方の血は私たちの魂をきよめ、罪と死から解放する。イエスと共に罪に死んだのは、イエスと共に生きるためだとパウロは言う。イエスは新しい戒めを与えられた。イエスの愛にとどまり、自分と同じように隣人を愛することだ。神の教えは旧約の時代から私たちに提示され、みこころを行う機会は身近にある。子供の頃一日一善のCMを耳にした。素晴らしいことだと思う。あるとき、二人の小さい子ども連れのお母さんとバスで乗り合わせた。お母さんとお姉ちゃんとの会話の様子から、お父さんは単身赴任か何かで離れて暮らしているようだった。寂しいけど大丈夫と自分に言い聞かせるようにお母さんに話すお姉ちゃんの健気な言葉が耳に残った。最初は元気だった子供たちはすっかり眠り込んでしまった。寝ている二人の子供とベビーカーを抱えて下車するのは不可能だったのでベビーカーを持ちますよと申し出て、一緒にバスを降りた。とても感謝され私も嬉しかった。眠かったところを起こされ、ギャン泣きする男の子とまだ眠そうなお姉ちゃんの手を引いてお母さんは冬の暗い目黒通りを帰って行った。子育て、介護、看護をしている方々は一日何十善していることだろう。家族というコミュニティーだけでも神の教えを行う機会は山ほどある。神の教えを口ずさみ生きる人を、パウロは神の奴隷と表現した。神の奴隷とは真逆に、人は罪の奴隷となり得る危険性をパウロは忠告する。人は救われた後、神の奴隷となるか、罪の奴隷となるかを選ばなければならない。初代教会の時代に、神の恵みの赦しを自分の欲望を満たすために利用し、自由を謳い、自分の都合の良い話に耳を傾ける人々を惑わし、教会を混乱させ、イエスを否定する信徒や教師が現れた。人は弱く、その欲望は根深い。罪の奴隷となる者の報酬は死であるとパウロは断言する。疲れた人、重荷を負っている者をイエスは招く。〝くびき〟は聖書で色々な意味に例えられるが、エレミヤ5:5で神の教えを指しているのは興味深い。イエスの教えをイエスと共に負って歩むなら魂に安らぎが来る。私たちは失敗するがイエスは諦めない。ご自身を捨てて逃げた弟子たちを「子どもたち」と呼び、自ら弟子たちに給仕してくださったように、イエスの愛は私たちから離れることはない。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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