2022年1月16日 基督聖協団目黒教会 牧師 横山さおり
「イエスとともに死に、イエスとともに生きる」ローマ6:1~11
イエスの犠牲によって人に与えられた恵みがどんなに偉大なものであるかを述べた後、その恵みを受けた人がどうあるべきなのかをパウロは述べる。イエスの恵みが人の罪を覆い、恵みが満ち溢れるのなら罪の中にとどまっていれば良いではないか。そのような考えに対してパウロは断固反対する。イエスを信じる者が受けるバプテスマの儀式には、二つの意味がある。一つはイエスとともに罪に死ぬという意味である。アダムの時より人に入り込んだ罪と死は、全ての人類を支配した。やりたくない悪を行い。人を人とも思わぬ冷酷な自己中心的な性質は、人の努力や修行で克復出来るような簡単なものではない。恐ろしい呪われるべき罪という支配者から人が逃れるには、罪のない神のひとり子イエスの死による代価が支払われる必要があった。イエスが私達の罪を背負い十字架で死なれたことは、罪に支配された私達もイエスとともに十字架に釘付けられたことを意味する。霊的にはイエスとともに死に、葬られたのである。イエスとともに死んだことには目的がある。それはイエスがよみがえられたように私達も新しいいのちに生きるためであり、罪に死んで終わりなのではない。「新しい」はギリシャ語でカイノテースで、力をも意味する語である。イエスとともにあれば、イエスの力といのちを頂き歩むことができる。「新しいいのちに歩む」とは已然として弱さを持つ私達の中に私達の力ではないイエスの力が働いていることを体験する歩みなのである。とワルケンホーストは紹介している。5節の「キリストと一つになっている」の「一つになる」はギリシャ語でスィンフィトス。一緒に茂る、生じると訳すことが出来る語で、アラム語の聖書ペシタ訳では「キリストと一つになっているなら」を「キリストとともに植えられているなら」と訳されており、ワルケンホーストはローマ11章の接ぎ木されたオリーブの木の箇所と比較している。イエスと一つになるということは、植物の根、幹の中を通る養分が枝の隅々にまで届けられ植物が生きるように、イエスのいのちが私達の霊のうちに脈々と流れ込むことを意味している。イエスご自身が十字架にかけられる前に、弟子達との大切な語らいのなかで語られたみことばを思いだす。「わたしは、ぶどうの木であなたがたは枝です」(ヨハネ15:1~5、9)。「わたしの愛にとどまりなさい」。イエスとともに生きる新しいいのちの歩みとは、私達の力ではないイエスの力が、私達の中に働いていることを体験する歩みなのである。罪に死ぬということは、罪を犯さなくなるわけではない。イエスから「あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、すでにきよいのです。」と言われた弟子達は、ゲッセマネの園では、イエスを見捨てて逃げてしまった。私達の弱さは決して無くなることはない。しかし、イエスは十字架の上で「完了した」と宣言された。救いの御業は完成された。私達はイエスとともに罪に死んだ。今はイエスが差し出される御手をとり、イエスとともに新しいいのちに歩むのである。イエスとともに死んだのはイエスとともに生きるためなのだから。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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