2022年1月2日基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司
「万物をその足の下に服従させて下さった」 へブル2:6~8〝
失われた世代〟とは第一次大戦中に成年期を迎えた世代で、無意味な戦争を体験したことにより既存の思想、倫理、価値観に激しい不信を抱き、この世の不条理を思いながら、自分に対して忠実に生きることだけを依りどころとした人たちである。病気や不幸は大きな転機となる場合がある。私自身(社会や国家への義務は終わった。あとは自分に対し、キリスト者として忠実に生きること)、最近そんな考えを抱いているふしがある。「万物をその足の下に服従させて下さった」。「万物を彼に服従させて下さった」という以上、服従しないものは、何ひとつ残されていないはずである。しかし、今もなお万物が彼に服従している事実を、わたしたちは見ていない」(へブル2:8)。キリストは万物の支配者であり、このお方に従わない存在は何ひとつ無いはずなのに現実はそうではない。信仰を持たない多くの未信者で溢れている。〝信仰を持たない者の存在〟について二人の代表的人物が解答を与えようとした。ジョン・カルバンとウェスレーである。まずカルバンの〝二重予定説〟だ。救いに予定されている者は救われ、されていない者は滅びると運命づけられている。カルバンは、人間の全面的堕落により人は神を信じる力を失い、神の元へ歩み寄る力を持たない。救いは神による一方的な恩寵の結果として与えられるもので、人間の責任とは無関係であると訴える。一方ウェスレーは〝万人救済説〟を唱え、キリストが十字架を背負われたのは、信じる者のためでもあり、信じない者のためでもある、とする。二人の説には大きな違いがある。〝二重予定説〟からも〝万人救済説〟からも宣教、伝道の出る余地がないのでないか。へブル書2章8節の前半には「はずである」とあり、万人がキリストに服従しているのは「はず」であって、後半では「事実を…見ていない」とある。これが2章8節の主旨である。「はず」と「事実」が対立しており、この「はず」と「事実」を結びつけるのが、伝道であり、教会存在の意義である。教会も試練によって大きな転機を向える時がある。(超教派や組織への義務は終わった。あとは自分に対し、キリスト者として忠実に生きること)、最近そんな考えを抱いているふしがある。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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