2021年5月9日基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司
「イエスの大願」  マタイ13:44~46昔
エルサレムの町に貧乏な若者がいて〝ああ、金持ちになりたい〟と思っていた。ある日、日時計の下の、大きな無花果の根元で昼寝をしていた。目の前には畑が広がっている。突然み使いが現われ「そんなに金持ちになりたいか」と尋ねた。「はっ、はい!」。「よーし、それならローマへ行け」。若者は目をこすり(夢だろうか?よし、ローマへ行こう。運が開けるかもしれない)。砂漠を歩き、盗賊や野獣に追われ、ローマへたどり着く。それらしい宝はどこにもない。腹はペコペコ、金はない。屋敷の壁に寄りかかり眠ってしまった。「泥棒だ!」。周囲の様子が慌ただしい。屋敷に泥棒が忍び込んだらしい。黒い男たちがバタバタ飛び出してきた。「おい、そいつを捕まえろ!」。ウロウロしていた若者は、盗賊の仲間と勘違いされる。「こらッ、白状しろ」。「私は泥棒じゃありません。エルサレムから来た旅人で…」。様子を見れば、盗賊の一味ではなさそうだ。「…不思議な夢をみまして」。「不思議な夢?」「はあ。夢の中にみ使いが現われ〝宝がほしけりゃローマへ行け〟と」。「お前はバカな奴だなあ。夢の中の神の声なぞ、なんのたしになるもんか。水で頭を冷やすんだな。おお、そうだ!わしも若い頃そんな夢を見た。たしか…どこかの町の日時計のそばだった。大きな無花果の木があって、畑が広がっていた。その畑にわしの宝が隠してあると」。若者は驚いた。そここそ彼自身がみ使いの夢を見た場所ではないか。すぐさまエルサレムへと道を取り、畑を掘ると、宝がごっそり埋まっていた。「天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います」(マタイ13:44)。〝どうせ昔の人の作り話だろう〟などと思っちゃいけない。私たちの人生には、この話くらいの出来事が起きて、何の不思議もない。自分もなにか素晴らしいお宝を発見しないものかと、胸をときめかせながら生きたい。そう考えると、わけもなく明るい希望が胸をくすぐる。イエスとは、素晴らしい宝が埋まった畑のようなものだ。ちょっと眺めたくらいじゃあ、その価値はわからない。だが求める心で眺めるならば、(素晴らしい畑にちがいない)と、そのことばに、その生きざまに、なにかしら宝としての片鱗を感じるだろう。「すばらしい値うちの真珠を一つ見つけた者は、行って持ち物を全部売り払ってそれを買ってしまいます」(マタイ13:46)。イエスは訴える。(わたしにはそれほどの価値がある)と。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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