2021年3月14日 基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司
「この人でなければ、この結末は…」  詩篇51篇 
ギリシャの古典劇が運命の悲劇だと言われるのに対し、聖書の世界は性質的偏り、強い癖、性格の悲劇が色濃く現れているのではないか。ギリシャの古典劇では登場人物がどうしようもない不運に見舞われ、運命の定め、非情を嘆くよりほかにない。だが聖書の場合、非運もかかわっているかもしれないが、この人物でなければこうはならないと、登場人物の性格がドラマの結末に大きく影響するケースが多いのではないか。ダビデの息子アブシャロムが反乱軍を結成し、父を討とうと企てる。ダビデ王は、息子に命を狙われ宮殿を捨てて荒野に逃げる。アブシャロムは軍の武将たちを集めて策を練る。参謀アヒトフェルとフシャイがそれぞれの策を訴える。アヒトフェルの策は退けられ、フシャイの作戦に命運を賭けることとなる。このとき、アヒトフェルのプライドは大いに傷つき、生きる気力も失せた。(俺なら、死ななかったなあ)と、私はつぶやく。性質的偏り、強い癖がアヒトフェルをある行動に走らせる。「アヒトフェルは、自分のはかりごとが行われないのを見て、ろばに鞍を置き、自分の町の家に帰って行き、家を整理して、首をくくって死に、彼の父の墓に葬られた」(Ⅱサムエル17:23)。プライド、強い癖、性格の悲劇である。 シリアのナアマン将軍はライ病を患っていた。預言者エリシャが彼のライ病を癒すことになり、ナアマンはエリシャのもとへ赴いた。謝礼として金銀晴れ着を携え、エリシャの家の戸口に立つ。だが戸口に出たのはエリシャではなく、使いの者にこう言わせただけだった。「ヨルダン川へ行き、七たび身を洗いなさい。あなたは聖くなる」。ただそれだけだった。ナアマンはプライドを傷つけられ大いに憤り、そのまま帰国しようとする。このとき憤る将軍を部下たちがなだめたという。ナアマンは部下の声によく耳を傾ける上司だった。部下たちの勧めに従い、異国の川に七たび身を浸す。すると神の力が現われ、ライ病は癒された。 将軍ナアマン、この主人公でなければこうはならないと、主人公の性格がドラマの結末に大きく影響したのは本当だろう。アヒトフェルもナアマンもプライドが高い。だが結末は大いに異なった。アヒトフェルは首を吊って自害し、一方、ナアマン将軍のライ病は癒された。 最後に言えば、キリストの十字架の愛は、傲慢な者をも見捨てないだろう。だが傲慢に振舞うより謙虚な方が、人生、生きるに心地よいのは言うまでもない。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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