2021年2月21日基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司

「主のみわざ」 詩篇107:23~31

詩篇107篇では、貿易船のたとえが語られる。人生を航海にたとえているのだ。「彼らは主のみわざを見、深い海でその奇しいわざを見た(107:24/新改訳)。深い海、海底で主のみわざを見たと言う。海底に対比し、海上、海面は次のような状況だ。「主が命じられると暴風が起って、海の波をあげた。彼らは…悩みによってその勇気は溶け去り、酔った人のようによろめき、よろめいて途方にくれる」(107:25~27/口語訳)。海面では強風、高波が荒れ狂う。人生が船旅にたとえられる所以である。口語訳は、主のみわざと出会う「深い海」を、「深い所」と訳している。駄洒落のようだが〝深い所〟を突く訳ではないか。「奇しい主のみわざ」とは、祈り、呼び求めるなら、神は人間の訴えを聴いて悩みの中から救いだす。悩んで、祈って、救われた。まことに結構なことではないか。だがこの程度ではまだ〝深い所〟を見たことにはならない。「主が命じられると暴風が起って、海の波をあげた」(107:25)。暴風、高波の張本人は、主(神)だと言われている。これは確かに〝深い所〟である。「主があらしを静められると、海の波は穏やかになった」(107:29)、これについては何の説明もいらない。神が嵐を起こし、神が嵐を静める。これが〝深い所〟である。〝深い所〟の意味について、(深いからわからない)と感じたとき、人は人生の嵐をどう受け止めるだろうか?因果応報的に、罪を犯した結果、自業自得と考えるかもしれない。あるいは、偶然や運命のいたずら、悪い星の下に生まれたと考えるかもしれない。この二つの共通点は、どこにも訴えようがない、持って行くべき場所、行き場がないことだ。偶然や運命ととらえればそれまでだ。そこから先にはなにもない。罪の結果もそうで、過ぎ去った過去の過ちも、なかったことには出来ないからだ。運命も過ちも完全沈黙、一言のこたえもない。だが聖書の神は、呼べば応える神である。「彼らはその悩みのうちに主に呼ばわったので、主は彼らをその悩みから救い出された」(107:28)。これが暴風を起こす神の正体だ。暴風を起こせる神は、どんな暴風をも静めることができる。これを大きな声で訴えるため、あのような表現、「主が命じられると暴風が起って」(107:25)という状況が生まれていた。訴えの中心は、呼べば応える神である。暴風を起こせる神こそ、どんな暴風をも静められる。これを主張するため、あのような表現がなされていた。ここが〝深い所〟なのであり、「深い所でそのくすしきみわざを見た」(107:25)。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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