2019年9月22日

「回心と悔い改め」   ローマ2:4

基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司

「彼らは苦しみながら、わたしを捜し求めよう。さあ、主に立ち返ろう」(ホセア5:15~6:1)。聖書は「苦しい時の神頼み」を認めている。苦しみは、神を捜し求めさせるのだ。「悔い改め」によく似た言葉に「回心」がある。「回心」とは心の向きを変えることだ。苦しみに出会って、神さま不在の生活から神を捜し求めて主に立ち返る。

「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)。「回心」に対し「悔い改め」とは、罪を悔いて心を改めることだろう。ロシアの文豪ドストエフスキーの作品に「罪と罰」がある。人はみな罪人であり、人間には「罪と罰」の問題があるのだ。「罪」のあとで「罰」が襲ってくる。

このとき、二人の強盗がイエスとともに十字架につけられていた。「強盗」、人の物を盗る行為であり、人間であればみな、一度は犯したことのある罪だろう。「十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、『あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え』と言った」(ルカ23:39)。これは「苦しい時の神頼み」である。「ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。『おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。』」(ルカ23:40~41)。もう一人の強盗は、「罪と罰」の問題を直視し、イエスと向き合った。「われわれは、自分のしたことの報いを受けている」(ルカ23:41)、すなわち、罪の報いとして罰を受けていると考え、イエスに救いを求めた。犯した罪の問題を後悔し、罪を悔いて救いを求める者をイエスは決して見捨てることはない。イエスは優しい視線を向け、強盗に約束された。「わかった。あなたは今日、わたしと一緒にパラダイスに行くだろう」と。

そう言えば、四人の男が中風を患った病人を運んで来たとき、イエスは彼を癒してこう告げた。「元気を出しなさい。あなたの罪は赦された」と。人間には「人生問題」とともに、「罪と罰」の問題があるのだと、訴えたかったのだろうか。イエスとの出会いの何たるかを私たちに教えてくれるエピソードだ。

「罪と罰」の主人公・ラスコーリニコフの人生にも、罪のあとで罰がやって来た。彼は聖書を持ち出し、キリストに救いを求めて警察に自首をする。それでいいのだ…。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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