2019年9月1日
「父なる神、子なるキリスト」 マタイ3:17,ヨハネ3:16

基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司
ギリシャ神話に「ポリクラテスの指輪」がある。王様ポリクラテスが航海していると、突風が走り、海が荒れ狂い、船は木の葉となって砕けんばかりに揺れ動く。家来が乗船していた占い師を呼ぶと「王様が一番大事に思っておられるものを海にお捨て下さい。そうすれば、海の神は嵐を静めるでしょう」とのこと。さすがは王様、船にも宝物が積んである。次々と宝物を捨てるが嵐は治まらない。二番目、三番目を捨て、一番大事な「ポリクラテスの指輪」を捨てていなかったのだ。

「また、天からこう告げる声が聞こえた。『これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ』」(マタイ3:17)、一番大事な「そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された」(ヨハネ3;16)、捨てられないはずの宝を捨てたのだ。屑みたいな私を救うため、子宝イエスを捨てたのだ。

〝子煩悩〟という言葉がある。〝煩悩〟とは、迷いであり、罪である。親は子どもためなら、どれほどのエゴイストにでもなるし、悪いことでもしてしまう。子どもが可愛くて仕方がない、これは煩悩のひとつである。全人類を犠牲にしてでも自分の子どもは救う、これが〝子煩悩〟の本質である。

「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」(マタイ3:17)だけでは、親バカの子煩悩になりかねないが、「そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された」(ヨハネ3;16)、これが命綱である。

「王様が一番大事に思っておられるものを海にお捨て下さい」。聖書の神は天地の主であり、全てのものを持っておられる。御使いたちも神の所有物だ。父なる神も、一番大事な独り子を十字架につけないで、二番目、三番目で間に合わせることもできただろう。だが、二番目、三番目を捨てても嵐は止まない。一番大事な独り子を惜しみ、御使いを十字架につけても私の罪の嵐は止むことがない。

いよいよ転覆寸前にまで追いつめられ、王様が指輪を捨てると、海は波を静め、嵐は弱まり、やがて青空が現われた。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」(ヨハネ3:16)。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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