2019年7月14日

「負債の免除」 申命記15:1~2

基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司

〝なせばなる〟との言葉がある。できないのは本気でやろうと思っていないからだの意味だ。だがそれができない人たちが多数現われるとき、国家は社会の倫理の形をとり、弱い者たちを救済する。ここで申命記も著しい社会倫理の形をとる。第七年目に借金を免除する規定だ。「七年の終わりごとに、負債の免除をしなければならない。その免除のしかたは次のとおりである。貸し主はみな、その隣人に貸したものを免除する。その隣人やその兄弟から取り立ててはならない。主が免除を布告しておられる」(15:1~2)。債権者に対して寛容と許しを求めたのだ。そこには宗教的理由もあっただろう。神の寛容と赦しである。神はイスラエルに対し、律法・戒律の形で厳しい要求を求められた。問題はイスラエルが神の要求に応じられなかったことである。このとき神が厳しい要求を一方的に求め続けるなら、彼らは滅び失せたであろう。だが神は何度も何度も彼らを赦し、その罪の負債を帳消しにして免除された。この神の赦しが隣人にまで具体化したのが、第七年目の負債の免除だ。

イエスの譬えに、一万タラント(約6兆円)の借金を免除された男が、友人に貸した100デナリ(約100万円)を強引に取り立てようとして牢に閉じ込めた話がある。ひどい奴だと言いたいところだが、これが人間の姿であるとイエスは訴える。私が債権者なら、100万円を許すのは難しいだろう。「6兆円赦してもらったのだから、100万円くらい放棄してもいいじゃないか」、これは世間体や常識によって、罪が暴れぬよう閉じ込めようとしているだけだ。医学用語に「感染すれども発病せず」があり、人間は様々なウイルスに感染しているが、発病しないケースがほとんどだ。つまり私のような人間も、100デナリを許せず、牢に閉じ込めた男と同じ菌を持っている。だが私は牧師で常識的な人間だから、色々なもので中和し、発病させないでいるだけだ。だからこの男のようには多分ならないだろう。だが感染している菌を発病させたら、この男のようになるだろう。(私は赦されたけど、なんであいつを赦さなければならないのか)との考えは、私の心にも誰の心にもある。ただ徹底しないのだ。少しの意地悪をしたり、つまらぬ悪口を言ってみたり、ちょぼちょぼやっている。これをグランドスケールでやれば、誰でもこの男のようになるのだ。

イエスの十字架は、私の罪の負債を免除するためだったのは言うまでもない。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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