2019年3月24日
「自己中心の罪」 Ⅱサムエル12:1~9
 基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司
 サウル王は、英雄ダビデを厚く待遇するが、どさくさ紛れに殺そうとする。サウルはこう思っていたのではあるまいか。(助けてもらったのはありがたかった。ダビデは俺の恩人だ。だがこれから先の人生、俺にとって負い目のある人間がそばに生きているのは面倒だ。いつその負い目の返済を迫られるかわからない。うまく死んでくれればよいのだが…)。サウル王は、わざとダビデを危険な戦場に送ったりした。本当の悪党とは、そういうものだろう。サウル王の存在は、悪い大人の世界を垣間見せてくれる。人間は、どれほどエゴイストで、自己中心であるか…。これは聖書の中心テーマのひとつだ。論より証拠、今度はダビデが加害者側にまわり、自己中心の害毒をまき散らす。被害者が加害者になり、加害者が被害者になりながら、人はエゴイズムに取りつかれていく。
 ある日のことだ。ダビデは、(あの男、うまく死んでくれればよいのだが…)と考えていた。ウリヤという男がいた。忠実なだけが取り柄のような下男で、ダビデの部下である。それが素敵で美しく、賢い女房バテシェバをもらい、(俺には過ぎた女房だなあ)と思ったかもしれない。そこへ親方のダビデが現われ、女房と仲良くなってしまう。(うちの女房には、俺なんかより、親方様のほうが似合っているんじゃないか)と、思ったかどうか。しかも女房はダビデの子どもを宿していた。(彼女のために、自分は身を引いたほうがよいのではないか)と、思ったかどうか。ウリヤは、自分が親方様のダビデに殺されることを承知で、命じられるまま、シリヤのアレッポみたいな戦いの最前線に投入されたのではなかったか。ダビデが、(あの男、うまく死んでくれればよいのだが…)と考えていたのは間違いない。後にダビデは、神の使者ナタンに叱責され、自分の存在が、平和に暮らしていた一組の夫婦の幸福に波風を立ててしまった、申し訳ない、と初めて思ったという。
人間はどれほどサラリと自己中心的になれるのだろうか。「ナタンはダビデに言った。『あなたがその男です。…どうしてあなたは主のことばをさげすみ、わたしの目の前に悪を行ったのか。あなたはヘテ人ウリヤを剣で打ち、その妻を自分の妻にした。あなたが彼をアモン人の剣で切り殺したのだ。』」(Ⅱサムエル12:7,9)。
今日も、キリストの誠実な愛にすがりたい。イエスは、私を赦して下さるだろう。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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