2018年12月30日
「私たちから受けた言い伝え」  Ⅱテサロニケ3:6
基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司
東日本大震災、歴史上屈指の大災害。その背景にあるものは、人は何を基準として、どう生きればよいのかとの命題であった。ここ数十年、私たちは物の豊かさを求め過ぎたのではあるまいか。GDP、国内総生産が世界第二位だとか、第三位に下がったとか、それは本当に重要なことだろうか。もちろん経済の豊かさは大切だが、それがどう生きればよいのかの基準ではあるまい。貧しくとも心の豊かさを求める基準はほかにあるだろう。
「兄弟たちよ。主イエス・キリストの御名によって命じます。締まりのない歩み方をして私たちから受けた言い伝えに従わないでいる、すべての兄弟たちから離れていなさい」(Ⅱテサロニケ3:6)。ただ単に、パウロが短気を起こし、怒鳴っているだけではない。この言葉の意味はことのほか深く、新しい生き方の基準になるだろう。「私たちから受けた言い伝え」(3:6)とあるが、神学用語で「伝承」とか「言い伝え」と呼ばれているもので、重要な概念だ。
イエスの公的生涯は二年半ほどだが、その期間はイエスご自身が信仰の基準だ。生きたイエスに学び、イエスその人に聞き従えばそれでよい。だがその後、イエスの十字架、復活と続き、残された弟子たちに「地の果てまで、わたしの教えを伝え、広めるように」と命じて昇天、天に帰られた。さあ、大変だ!イエスがいなくなっては、何をどう教えて、伝え広めたらよいのだろうか。第一、信仰の基準をどこに置けばよいのだろうか。
イエスは生前、信仰の根本となる心構えを幾つも示してくれた。生前のイエスの訴え、イエスの主張、つまり、イエスが残したことばを基準にし、これを信仰の実践的模範とすべきと、弟子たちが考えたのは幸いだった。新約聖書が正典化されたのは、二世紀から四世紀にかけてである。つまり、新約聖書が存在しない時代の一世紀後半、初代教会にとっての最大の関心事、それはイエスの残したことばを忘れないことだった。そこで、「ディダケ―」と呼ばれる、イエスのことばを記録した文書が、使徒たちを中心として執筆されたと言われている。初代教会が、イエスの残したことばに信仰の基準を置いたのは幸いだった。
私たちの生活の基準は、どこにあるのだろうか。教会生活とは、イエスの言葉に基準を置き、ひと足、ひと足、歩むことである。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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