2024年3月17日 基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司
「生きる知恵」マタイ1:3~6
カナンへの旅の途中、ヤコブ一族は汚いやり方でヒビ人に復讐した。神はこれをお許しになるのだろうか?この疑問は旧約聖書が重視した〝契約〟の考え方ではない。常識的な善悪など添え物に近く、その一族が神とどんな契約を結んだのかが第一義である。イスラエル(ヤコブ)がアブラハム以降の使命を実現すべき人間として約束されている事実が重要である。キリストの系図には四人の女が含まれている。タマル、ラハブ、ルツ、バテシェバである。タマルは義父との間に不義の子を産んでいる。この世の中、近親相姦は思いのほか多いのではあるまいか。なにげない社会生活のすぐ近くにひっそりと存在しているところが恐ろしい。ラハブは遊女として生計を立てる道を選び、バテシュバは、ダビデの愛人として生きた。メシアの系図に名を連ねた〝場違い〟な女たち。(やっぱり、場違いだよなあー)心の中のこの台詞はつぶやいた方がいい。つぶやくことで、私は少し救われる。場違いな人間にも救いはある。それがこの系図の流儀であっただろう。だから悪女を描けばそれでメシアの系図になる。この系図の特別な意図を鑑みれば本筋において女たちは正しかった。私はそう信じる者である。だが女たちにとっては社会生活の現実は厳しく自分の過去と向き合う長い旅路になりかねない。その旅路は、自分の心を壊すかもしれない。だからこそ、キリストの系図に名を連ねる。それが女たちの生きる知恵であっただろう。ヤコブにとっては、アブラハム以降の血筋をキリストにまで繋ぐこと。それが使命であり、〝常識的な善悪など添え物に近い〟とはこの意味である。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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