2024年3月10日 基督聖協団目黒教会 牧師 横山さおり
「献身」ローマ12:1~8
「こういうわけで、兄弟たちよ、神のあわれみのいっさいをもって、私はあなたがたに訴え懇願します」。私たちはローマ書でイスラエルに向けられた神の憐みの深さを学んだ。旧約聖書で表わされる神の聖さは、すべての被造物を震え上がらせ、悪者の前に立ちはだかる。神がイスラエルに表された厳しい姿に、神がきよく完全なお方であることを知る。また、イスラエルを見捨てない姿に、神が愛と憐みに満ちたお方であることを知った。堕落しても神はイスラエルを捨てることはない。それは、オリーブの木のたとえにあるように、神は、彼らの父祖と契約を結ばれたからだ。真実な神は、契約を破ることはない。そして、神はイスラエルの失敗を用いて、すべての人に永遠のいのちに至る道を開かれた。「あなたの子孫によって、地の全ての国々は祝福を受ける」とのアブラハムとの約束を実現された。イエスは異邦人が神の民に加えられることをご存知で、その使命に生きた(ヨハネ10:14~18)。イスラエルが神の民として受けている愛も、憐みも、使命も、接ぎ木されたことで私たちのものともなった。ユダヤ人だから、異邦人だからとの隔てからではない(ガラテヤ3:26、28)。
人が創世の折に持っていた神との慕わしい関係、永遠のいのち。これらを再び取り戻すため、御自身を犠牲にされる決心を固くし、神から与えられた使命を果たすべく十字架に進まれたイエスの愛。パウロはこのように表された神の憐れみのゆえに、ユダヤ人信徒、異邦人信徒に勧める。「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です」。イエスを信じたすべての信徒が神のあわれみに応答することをパウロは勧める。
義と認められることも、きよくされることも、人間の側で出来ることではない。義もきよさも神のあわれみにすがり、イエスを信じることにより一方的な恵みとして与えられる。自分の力で神に喜ばれる者となってから、きよくなってから自分を神に献げよということではなくありのままの私を神に献げれば、神は喜んで受け入れてくださる。私たちの成しえることは神の御こころを求め続け、探し続けることだ。(マタイ7:7~11)

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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