2024年3月3日 基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司
「美しい町を、野を、海を眺めよう」創世記1:29~31
大乗と小乗の区別がある。大乗は広く人間全体の救済を主眼とする。小乗は自己の内面的上昇が第一だ。外に向かうものと内に向かうものだ。信仰生活にもこの二つが備わっているだろう。人間救済の根源は人間の堕罪、失楽園である。二人は自ら選んで命の源に背を向けた。背信の行きつく先に〝死〟があった。人間は命の儚さに何をもって立ち向かったらよいのだろうか。Man is mortal人間は死ぬべきもの。私はこの言葉に他人より多く取りつかれた人間のような気がする。だが、よく生きるためには、この言葉が不可欠だとも強く信じている。世界が広くなり、考えが多彩になる。名誉やただの紙切れ(お金)にも執着せずに済む。〝
失楽園〟にはどこか哲学的な世界観が漂っている。〝生めよ増えよ、地に満ちよ〟歓喜の中に忍び寄る死の気配。ふたりは目に慕わしく映った果実を得て満足しただろうかMan is mortalこれが生きとし生けるものの宿命となっただけではなかったか。花は今を盛りと咲き誇っているときに死が始まっている。人の一生にもそんな不安がつきまとっている。生きることの繫栄のすぐ隣に空虚なものの影が宿っている。二人はもはや亡霊である。亡霊がいつまでもエデンの園に住むものか。自己の内面的上昇。訴えるべき主義主張を持ち合わせているわけではない。人間は多義的で、多くを語るが曖昧で訴えるものなど明確ではない。「アダムとエバ、ふたりの姿にあなたは何を思う?」そして、「今のあなたには何が必要か?」私は思う。「死の虚しさを。生きていることのすばらしさを」。「何が必要か?」「私にはすべてが、全世界が必要だ。神がいて、木々や果実のある野山も必要だ。トルストイは「人に必要な土地は墓穴の大きさだけだと語ったが、土地はもっといる。神がいて、走り回れる野山があってそういう全世界の存在の中で人が生きていることが大切なんだ。神は仰せられた「見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与える」見よ、それは非常に良かった。夕があり、朝があった。(創世記1:29~31)。美しい町を、野を、海を眺めよう。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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