2024年2月25日 基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司
「人を殺す力」マタイ5:21~22
「人を殺す者はさばきを受けなければならない。しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません」。〝殺し〟には憎しみ、恨み、怒りが伴うのは本当だろう。〝事実は小説よりも奇なり〟現実に起きていることはフィクションよりはるかに複雑で波乱に富んでいる。例えばダビデがウリヤを殺す。かなり手の込んだ方法をとっている。(あいつを殺すとしたらどうやるかな)ダビデの心はこの思案と無縁ではない。本当に殺したいならこの思案は否応なしに現実感を持ち、想像にも執念が入り込む。だが現実には、そうそう殺したい人などいるはずもない。当然のことである。ひとりかふたり、十人を超えることは考えにくい。だが〝人に向かって腹を立てる〟ことそれ事体をナイフで人を刺すのと同じ重さで図るとするなら十人など三日分でしかない。あのお方の訴えは、ひとつの憎しみでも、心の中でめいいっぱい増幅させるなら人を殺すことと何が違うのか。あなたの近くにキリスト者がいて、それなりに親しい関係だとするなら一度くらいは彼の心の中で殺されているはずだ。優れた日本人論に「菊と刀」がある。日本人には〝罪〟が理解できない。〝罪〟とは、人間の眼が、世間の眼が見てなくても、神が見ているところで感じるものだと言う。欧米人の関心が〝罪〟にあるのに対し、日本人の場合は〝恥〟だと断定する。人間の眼、世間の眼に晒さらなければ問題は何も無い。恥をかかないからだ。世間の眼に晒されなければ、案外平気で悪いことをしてしまう。「でも俺たち、いつか罰を受けるだろう」。「お前の言う罰は世間の罰か?それとも神の罰か?世間の罰なんか出てきても人間はちっとも変わらんぜ」。「でも、このままじゃ済まないだろう。」「キリストはののしられても、ののしり返さず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです」(Ⅰペテロ2:22~24)

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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