2024年2月18日 基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司
「弟息子教会と兄息子イスラエル」ルカ15:29
百人隊長の救いは神がユダヤ人だけのものではなく広く、偏りなく、万民に及ぶ画期的な意味を持った。イエスは、異邦人や一般大衆に味方し、民生を心がけた。それが本来の気質であったのか、神の子としての読みであったのかはわからない。デェビーしたイエスは神の恵みがイスラエルだけのものとする、律法学者らの主張には否定的だったろう。イエスの話に放蕩息子がある。常に父は息子らに語った。息子たちよ。浮世は儚いものだが、天の国は永遠に続くもの。神の掟を正しく守り悔いのないよう生きてくれ。貧しい人には恵みを垂れ品性の卑しい者を友にしてはいけない。その弟息子が巨額の生前贈与を貰う。父の教えなどどこへやら、たちまち放蕩三昧の生活に入り浸る。いったん転げ始めた石は止まるもんじゃない。有り金は底をつき、じゃあ、ロレックスの時計を売ろう、フェラーリを売ろう、タワーマンションを売ろう、自分の住む家さえ無くしてしまう。ここまで落ちぶれれば貧乏神はさらに早い足取りで近づき、ついには豚から餌を奪うようになった。弟息子は今さらのように後悔したがもう間に合わない。であるなら、お父さんが息子を探し、連れ帰るより他にない。神とはこの父のような存在だとイエスは訴える。次に兄息子が登場する。主役は兄か父か弟か?判断は簡単ではない。だがイエスの中で、そのキャスティングは明確であった。弟は異邦人であり、兄はイスラエル、父は神である。主役はさておき、配役は明らかだった。兄は長男として、己の人格に十分な自信を持っている。浮世を儚いものとし、律法と掟を守り、正しく生きた。世の宝に執着しなかった理由を兄に問おう。「私はもっと良い宝を持っております」「ほう、それは何かね」「神の掟の前に正しく生きることです」。私の近況として、罪を犯し、許されながら生きるより、いまは正しく生きたい。兄はあまりに掟に固執し過ぎて現実離れの様子もあるが、イギリスにこんな諺がある。「一日だけ幸福になりたければ床屋に行け。一週間なら結婚しろ。一か月なら馬(車?)を買え。一年なら新築しろ。一生幸福でありたいなら正直な人間になれ」

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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