2024年2月4日 基督聖協団目黒教会 神学生 馬上真輝
「いのちを救う生き方」マルコ8:34~35
イエス様は「だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」と語られました。自分を捨てるとは、自分を忘れる、あるいは自分の利益を見失う、という意味です。私たちは、意識してであれ、無意識であれ、自分のために考え、行動し、生きているものです。イエス様は、私たちが知らず知らずのうちに握りしめているものを手放しなさいと促されます。
またイエス様は、ご自分に何の罪もないにも関わらず、十字架にかけられることを選ばれました。それは、私たちのためにイエス様が自ら進んで引き受けられた、重い苦難でした。自分の十字架を負うとは、イエス様に従う中で立ちはだかる苦難を、自ら進んで引き受けることを意味します。
続けて「自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音のためにいのちを失う者はそれを救うのです。」と語られます。いのちとは、霊やたましいといった内面的ないのちのことです。また救うとは、保つ、または保持する、ということです。つまり、自分のいのちを救おうとすることは、自分を自分で保とうとすることなのです。私たちは霊的存在として造られました。
「神である主は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった」創世記2章7節)。
人は神様にいのちの息を吹き込まれたことで誕生しました。言うなれば、私たちの存在には神様の愛が込められているのです。しかし、罪に陥ってしまった私たちは、神様から離れているので、自分のいのちを保とうと、色々なことを考え、また行動します。そのようにして自分で自分のいのちを保とうとする時、私たちは自分のいのちを失ってしまうのです。そんな私たちにイエス様は「わたしと福音のためにいのちを失う者は、それを救うのです」と語られました。それは第一に、自分のいのちを保とうとすることをやめることです。またそれが現れている行動を手放すことです。そのためには、イエス様がご自分のいのちを捧げるほどに、私たちには価値があって、愛されている、という福音が必要なのです。この福音が私たちの心の隅々まで染み渡る時、私たちの渇きは、完全に満たされるのではないでしょうか。イエス様が命じられていることは、この福音のために自分のいのちを失うことです。そして、イエス様が望まれているように、神と人とを愛し、仕える生き方をする。そのようにして、私たちが自分のいのちを失う時、福音によって私たちのいのちは保たれるのです。これこそいのちを救う生き方です。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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