2024年1月14日 基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司
「われは我が科を知る」ローマ5:18
罪(ハマルティア)は、〝的外れ〟の意味である。あの時の決断は、あれでよかったのかな。的外れでなかったことを祈りたい。だが、今の私ならそれを選ばなかっただろう。「彼らは神に逆らって、狂った弓(口語訳)矢のようにそれてしまった。(詩篇78:57)この詩はアサフの作だが彼は人間を「狂った弓」と詠んだ。アサフが人間を考える立場で何を思いどんな試行錯誤に陥ったか、そのプロセスを「狂った弓」の中に見る。アサフの詩人としての可能性と周到な瀬踏みを含んでおり、これ以後の新約の萌芽がすべてこの表現に潜んでいる。「人間を狂った弓矢とする、こんなスタイルはどうかな」苦悩するアサフのプレゼンテーションであった。多くの花がこのあと「狂った弓矢」の上に形を採って咲いていく。罪が的外れで、人間が狂った弓矢だと言えばその後の見当はつく。弓矢そのものが狂っている場合、たとえ的の狙い方が正確で呼吸のリズムが妥当でも、矢はひるがえり、的を反れていく。人間の努力や鍛錬ではどうにもならない困った人間観なのである。「ちょうどひとりの違反によってすべての人が罪に定められたのと同様に、ひとりの義の行為、十字架の犠牲によってすべての人が義と認められ、いのちを与えられるのです(ローマ5:18)。親子に似た点があれば〝遺伝〟によると言える。始祖から次の世代に伝わる形態である。私が罪人なのは、神に不従順なアダムの血が私に流れているからだ。アダムとエバが生きた時代のトラブルである。パウロはいつも「人間とは何者なのか」を考えていたに違いない。人間は危ない存在であり、パウロはそこをピシッと書く人だった。「私はしたいと願う善を行わないで、したくない悪を行っています」(ローマ7章)。そしてパウロはキリストを「第二のアダム」と呼んだ。第二のアダムは、(断絶した神との関係を取り戻したい)(切れた人生を取り戻し、楽園での予定のコースを再現したい)。十字架に至るまで深まるこの情熱を描くことで、「神の戒めに背くあの行為はいったい何だったのか」と、真摯な問いかけを含むこととなった。パウロは、アダムの失敗を思いながら第二のアダムを見据える、そんな思案を持っていたのではあるまいか。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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