2024年1月7日 基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司
「キリストを信じない愚か者」Ⅰ列王21:2
アハブはナボテに次のように言って頼んだ。「あなたのぶどう畑を私に譲ってもらいたい。あれは私の家のすぐ隣にあるので」(Ⅰ列王21:2)。「隣りの土地は借金をしてでも買え」と言われるが、それよりなによりも(ナボテ殺害の動機はこれでいいのかな)との疑念である。罪と向き合うためには動機が重要だ。ただ憎いから殺すのではなく、どういう憎さなのか罪人の切羽詰まった心理の追求と描写が肝要であり、そこから人間の追求、社会への警鐘が鳴る。ナボテは哀れにも身に覚えのない罪で殺された。ブドウ畑の搾取で問題となるのは可能性の犯罪である。殺せる可能性とバレない可能性。殺せる可能性が小さくてもバレない可能性が大きければ(やるだけやってみるか)となるのではないか。人間、似たり寄ったりだ「バレなければ何をしてもかまわないとして誰もが生きている。この考えを矯正するのは並大抵のことではない。「ブドウ畑が欲しい」にも色々なレベルがある。殺しちゃおうから始まって、殺した方がいいかも、殺せるかもしれない、そして、殺そうに至るまで、段階はいくつもある。人間には、思いとどまるチャンスがどこかの段階に存在しているはずだ。思いとどまるべき時に思いとどまらないと相当に複雑なミステリーに迷い込むことになる。
ナボテ殺害の首謀者王妃イゼベルはエリヤの預言通り、イズレエルの地で、野犬に食い荒らされた。こうして神の言葉は成就した。罪を犯せば必ず罰を受けなければならないのか、モチーフ的に広げた網は十分に大きい。イゼベルの心の奥には寂しい犯罪者が隠れていた。その犯罪者が「(罪を犯せば罰を受けなければならないのか)と問うている。そのあたりに動機の一端を垣間見る。(バレなければ何をしても構わないのか)と、寂しい犯罪者が叫んでいる。このあたりの動機とモチーフを考えれば、キリストを信じない奴は馬鹿である。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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