2023年12月10日 基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司
「特殊地域性」創世記19:24~29
最初に撒かれた種は、風に流され所かまわず落ちたのではなく、吟味された場所と時に撒かれた。その場所はアブラハムと呼ばれる人の魂の中であった。
優れた文学作品が映像化されることがある。原文は微妙なバランスの中で書かれている。主人公が主婦であるのも、舞台が九州であるのも時代が昭和であるのももっと細かい設定に至るまでみんな根拠がある。
神の種も微妙なバランスに従って撒かれたに違いない。
アブラハムが樫の木の下で憩いをとっていると、地面に三つの人影が映る。ソドムの町の乱れようがひどいものだから滅ぼそうと彼の天幕に立ち寄ったらしい。それを知ったアブラハムは、10人の良い人がいれば滅ぼすのを思いとどまって下さいと執り成す。だが神の裁きは始まった。ソドムの町は雷光と硫黄の雨の中で燃えていた。アブラハムとソドムとの関係は、ひどい町でも少しは良い人がいるだろうとする、弱い者の味方として終始関わろうとしている。それは彼に身についたものだったろう。
甥のロトとその妻。二人が途方もない滅びに身を委ねたのはなぜなのか。ロトの妻は振り返り、町を見つめた。未練があったのだろう。ソドムから去ることで善に親しめない不安も現実味を帯びただろう。煎じ詰めると、ロトもその妻も話の冒頭からソドムを選んだ人間として登場している。
周囲の土地はやせていた。二つの家族が同じ土地で生きるのは難しい。「東か西か好きな方を選べ」。ロトは叔父と別れソドムの方角を目指した。ロト夫妻はアブラハムと行動を共にし、ソドム的生き方を避けるべきチャンスは十分に持っていた。二人は全ての財産を携えソドムで遊ぼうというのだから、滅びの覚悟には念が入っている。二人はソドムに何を望んでいたのだろう。読者はあるがままに読み、一切を滅びに導く硫黄と雷光で燃える都会の町の風景を心に思い、ページを閉じればそれでよいのかもしれない。
人はみな微妙なバランスの中で生きている。舞台が目黒であるのも、時代が教会時代であるのも、病気をしたのも、もっと細かい設定に至るまでみんな根拠のないことではない。それが見えない人にはすべての営みがただの偶然でしかない。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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