2023年10月29日 基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司
「謀(はかりごと)」創世記50:19~21
12人兄弟の末っ子ヨセフは父の愛を独り占めにしていた。兄たちは面白くない。「ぶっ殺してやれ」。「穴に突き落とせ」。結局セフはエジプトに売り飛ばされる。嫉妬心が人を殺す動機になるだろうか?こんな心理をストンと滞りなく理解するのが私は苦手だ。だが昔、こんなものを読んだ。「私には妻がある。康子は夫と死別し、仕事をしながら、六歳の男の子を育てている。この男の子と二人で康子の帰りを待つのだが、この子が悩ましい。出刃包丁を握ったり、お菓子の中に猫いらずを入れたり、母を奪われまいと幼い敵意をほのめかす。とうとう破局が来た。私がトイレから出ると、闇の中に鉈を持って立っている男の子を見て逆上、無我夢中で子供の首を絞めてしまった。警察は、邪魔な男の子を殺害しようと企んだと解釈してやまない。(そうじゃないんだ。憎いのではなく、本当に怖かったんだ)。さて、7年間の大凶作の後、食料の安定供給政策で、ヨセフはこの国の宰相となる。自分を殺そうとした兄たちが食料を求め、エジプトにやってくる。劇的な再会だ。「覚えているか、あの日のことを。私はもう怒ってはいない。あの出来事は神の心に叶っていたのだ。神が私をここに遣わしたからこそ、あなたたちを救えるのだ。あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました」(50:20)。私に悪を謀った者らへの語りかけとしては、何かしら心に期するものがあったに違いない。悪者への語りかけとしては必ずしも気の進む言葉ではない。誰の人生にも充分に残酷な見せ場がある。「運命の謀に翻弄され、この先どうやって生きればよいのか。ただ怖かった」。だがヨセフのような生涯が存在したお陰で、私は希望を持ちやすくなっている。全能者の周到な目配りをほどほどに理解しないと、独りよがりの道しか歩めない。ある思いを心に期する情熱。(これは私の世界だな)と、心に期することである。「昔のことは忘れよう。カナンがそんなに飢えているなら、ここに来ればいい。私があなたがたを救おう」。人の営みの不思議なこと。人間の可能性のはかりがたさ。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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