2023年9月17日 基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司
「不親切」エペソ4:32
ある町医者が、休日診療の依頼を断ったため、復讐される。この場合、彼は復讐されるほどの悪いことはしていない。ただ、誰かが最も同情を必要としている時、同情することを怠ったという点で復讐されてもやむを得ないようなところはあった。同情心を欠いたため、他人から恨まれる恐怖である。人間はいつも、自分の苦しかった時代を考えるべきである。私的には〝悪人にも三分の理がある〟と信じる者である。悪者の貧しさや悲惨な環境に同情すべき要素がどこかに必ずあると信ずる者である。自分で弁明することもできない惨めな者たちに代わって弁明し、悪者にだってやむにやまれぬ思いもあっただろう。悪人にも人権があるとかないとか、そんな観念のためではなく、その人間の哀れな風情の同情のためである。悪者の罪を暴いて正義を実現するというよりは、むしろ罪人を見守り、悪人自身が良心の葛藤を経験するように、導いてゆくのがキリスト者の役割である。
ある日のこと、イエスはカペナウムにいた。四人の男が病人を担いでイエスの所へ連れて来た。恐らくこの病人には自分を迎え入れてくれない世間に対する憤りがあっただろう。人間は皆、些細な不親切を犯しながら生きている。それらの不親切は根にもたれるようなことではない.
〝俺の不親切で誰かが苦しんだ〟そんな考え方は絶対しないし、そんな誘惑には絶対引っかからない。私は今後も自分のペースで生きるのを絶対止めない。だが、四人の男たちはどうしても病人を直して欲しかった。ここで中途半端なことをすれば後悔する。屋根に穴を開け、床ごとイエスの前に吊り下ろす。図らずも人間は、自分に何かを課しながら生きるべきだ。だが世の人は世俗を離れ、そんな高踏的な生き方だけを考えられるものではない。稼業も忙しい、金儲けも忙しい、そこで自分に何かを課しながら生きるのだ。
教会にも酷く高踏的な部分がある。教会は庶民の味方だと言っていながら、しかし、庶民はこんな話は絶対聞かないようなことを盛んに語っている。教会のブランドを維持するなどという考えは、真顔で言われれば、ただ怖いだけである。肩書きだけでモノを言っているような奴ほど、視界の狭い、縄張り意識の強いモノはない。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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