2023年9月3日 聖協団目黒教会 牧師 都丸道宣
「寄留者としての喜び」創世記23章1-9節
最愛の妻サラが亡くなりました。127年前から、顔を合わせていましたが、もう目は開きません。悲しみにアブラハムは心乱され、力の限り悲しみを表します。ふさわしいときにふさわしい悲しみを表すなら、人は悲しみに振り回されることはありません。ときに人は悲しみに囚われ、前向きになれなくなります。怒りや痛み、苦しみや絶望はありますが、それらに人生を狂わされてよいものでしょうか。人生には喜び、楽しみもあります。神からの祝福があり、イエスの十字架は全ての重荷から解放してくださいます。自分で自分を責めることがあっても神様は責めません。泣いて悲しむあなたに、たとえ絶望の淵にいるときでも、明るく歩める道を備えて、そこを歩くことが出来る力を与えてくださいます。泣き終えたアブラハムは立ち上がり、サラのためにお墓の土地購入へと向かいます。そこはアダムとエバのお墓があった場所だとか、エデンの入り口を見つけたのでは?というユダヤの伝説が残された場所と言われているマクペラの洞穴です。そのような伝説にふさわしく、イサク、ヤコブ、そして彼らの妻たちも、やがてこの地に眠ります。この地を与えるという約束があってこそ、この土地の購入に踏み出したのではないでしょうか。後の時代のことはアブラハムには分かりません。しかし、アブラハムはイサクとこの土地を与えられることだけで、十分に神を信頼し、神との関係は揺るぎないものとなっていました。信仰は1日、ふつかで手にすることのできないものです。数々の失敗と、数々の神以外のもので満たされようという経験がありつつ、細くもしなやかに繋げられてここまで来ました。私たちの側から途切れさせようとしても、神は諦めなかったからこそ、関係が途切れなかったということもあったでしょう。そのようしてイサクを献げる大チャレンジに至り、サラの死を越える大チャレンジを通しても、神への信頼が紡がれていくのです。約束のものを全て目にすることはなくても、神への信頼によってはるかに遠くの約束を、喜んでいくことが出来るようになるのです。何かを得る目的のためでなく、神に祈り、神を深く知ること。それこそ恵みゆたかな人生を送る秘訣なのです。悲しみは癒され、苦しみからは逃れてきた。寄留者なので得たものは何もない、などと言ってられません。何かを与えたい気持ちが与えられているのです。神のつかさ、だとアブラハムは呼ばれています。その地のために祝福と恵みを祈る幸いを得た者の呼ばれ方ではないでしょうか。あなたもあなたの生きる地で、神を知り、祝福を祈り、恵みを与える者として立ち上がってはどうでしょうか。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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