2023年8月6日 基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司
「聖と俗」士師記21:25、ルツ4:21~22
モーセ、ヨシュアが死に、聖書の記述は士師記に移る。士師記を手早く解説すれば、カナンに敵が攻めてくる。イスラエルが神を忘れた不信仰の代償である。ある日、士師が現われ敵を滅ぼす。そのうち士師が死に、民衆のたがが緩み、また敵が攻めてくる。このパターンを繰り返す。士師記のプロットはほとんど一本道に近い。12人の士師が登場するが、12回同じことが繰り返される塩梅だ。聖と俗の間を揺れ動く。私の日常性が何であるかを突き付けているのだ。生き方としては、「蟻地獄」に似ている。崩れる砂穴の淵。天を仰ぎ、聖と俗の間を上っては下るの繰り返し。あらゆる努力も無駄で、脱出できない。そうこうするうち、世俗の環境に慣れてゆく。こんな砂穴の中にも、それなりの幸福があるのではないかと思い始める。少しずつお金を貯え、貯金ができたら、都心にマンションでも買おうなどと夫婦で話し合ったりする。苦労はあっても少しずつ夢を実現する中に、幸福があると信じているのかもしれない。人間は皆、自分相応の砂穴の中で暮らしている。
士師記は次の言葉で終わる。
「そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた」(21:25)。
微妙な感覚で、物語として閉じていない。まだ先があるような、扉が閉じていないような感触が残る。士師記の先にルツ記があり、ここで閉じるつもりなのかもしれない。影のある綺麗さではなく、清純な綺麗さで閉じるつもりなのかもしれない。ルツ記だが、親戚筋のボアズには血筋を守る義務がある。ルツはボアズの妻となり、オベデを産む。ダビデ王の祖父である。ルツの血筋からダビデ、ソロモンが生まれ、ダビデから数えて28代目にヨセフとマリヤにキリストと呼ばれるイエスが生まれた。たとえ100人の士師が活躍しても、救いに至るわけではない。ダビデやソロモンでも問題が残る。
「キリストと呼ばれるイエスはこのマリヤからお生まれになった」(マタイ1:16)。
いつも助けてくれた善良な友を叩き殺して土の中に埋め、ポケットから落ちた種が開花して死体のありかがわかる。十字架でなぶり殺して救いの花が咲く。咲いたのは復活の象徴、百合の花がよいだろう。清純な綺麗さで閉じよう。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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